東野圭吾の「秘密」という作品を読んでその感想めいたものを書いたが、これだけはどうしても書いておきたい。ただこれを書くとネタバレとか言うことになってしまうが、もうずいぶん前の作品で映画化、テレビドラマ化もされ、書評もあれこれ書かれているようだからいいだろう。
帰省に使ったスキーバスの事故で娘をかばった母親は即死、11歳の娘はほとんど無傷で助かるが、その娘に母親の人格が乗り移って旦那と奇妙な夫婦生活を始める。しかし、実年齢の違いに起因する溝が夫婦の間に広がってそのギャップに夫も妻も苦悩する。
そこにバス事故の運転手の話が割り込んできて、その運転手は最初の妻が生んだ子供が自分の子供ではないことに悩み、離婚して家を出るが、その後、「実子であろうがなかろうが父親は父親で子供には父親が必要だ」と無理して仕事をして仕送りをしてその子供に大学まで卒業させる。しかし、その無理が祟って事故を起こしてしまう。
そのことを知った旦那は妻の人格が乗り移った娘を妻としてではなく娘として支えていこうと決心する。また娘の体に乗り移った妻も将来娘が困らないようにと勉強に励んで医学部を目指す。そしてその「体娘人格妻」が高校生の時に娘の人格が徐々に復活していく。そして最初にデートした場所で夫に「ありがとう」と言って妻の人格は消えて現れなくなる。
その後、娘は医者になって例のバスの運転手の最初の息子と結婚する。「ああ、まあこんな終わり方でよかったじゃん。元々あり得ない話でそんな話だから終わり方としてはこうするよりないよなあ。」と思ったが、ちょっとどんでん返しがあった。
娘は自分の結婚指輪を死んだ母親の結婚指輪を使って作ったことを聞いた旦那は驚愕して錯乱する。「指輪の隠し場所は自分と妻しか知らないはずだ。妻はまだ娘の体に宿っているのか」と、・・。で、その錯乱した思考で結婚式の後で新郎に「俺から娘と妻を奪ったんだから2発殴らせろ」と言うが、殴る前に泣き伏してしまうところで終わっている。
妻の人格は消えて娘の人格が戻ったのか。それとも妻の人格はそのまま残っていて、でも自分がこのまま夫のそばにいたら夫は身動きできなくなってしまうと気遣って娘の人格が戻ったように装って夫のそばを離れたのか。どっちだろう。僕は娘の人格が戻って成長して結婚させて話を終わらせたんだなと思ったが、主流は妻の人格はそのまま残っていて娘の人格を装って夫を思って夫から離れた方だそうだ。
どっちにしてもお話の世界なんでどうでもいいのだが、もしも妻がそうしたのならあまりにも男が哀れじゃないか。男ってなんと哀れで悲しい生き物なんだと、・・それに比べて女と言うのは何と強かな生き物だと、そう思った。まあ、お話の世界だから読者に想像の余地を残して余韻を引いたところで終わらせる手法なんだろうけど、この男、妻の思いとは異なり、もう二度と立ち直れないだろう。
僕だったらどうするかな。最初のころのように妻が「手か口で、・・」と言えば「じゃああまり顔が見えないようにしてお願いします」と言うかもしれないし、・・笑っちゃってできないかも、・・。成長して離れ始めたら「お前は娘の人生をしっかり生きてやれよ。支援するから、・・」とか言ってさっさと自分の世界から切り離してしまうだろう。
いくら追い求めても人格がどうであれ、現実には父と娘で世代が違うんだからどうしようもない。そして結婚するとなっても「おう、元気でな」で送り出すだろうし、指輪の隠し場所も「ああ、人格がダブっていた時に妻から聞いたんだろう」で簡単に納得してしまうだろう。何よりも他人の生き方にこれほど引きずられたくはないというのが本音だろうか。
でもそれじゃあ情緒も感情も余韻も何もあったものじゃなくてお話にならないからやはり男は取り残されて嘆き悲しんでもらわないといけないのかもしれない。ああ、男とはなんと悲しい生き物なんだろう。これを一言いいたかった。でもこの主人公の男、けっこう濡れ落ち葉亭主かも、・・。男はねえ、えらそうなことを言っても衣食住、そして精神的にもきちんと自立せんといかんのだよ・・(^。^)y-.。o○。
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