今年も「鎮魂の夏の日」が過ぎ去っていった。1985年8月12日、日航123便が御巣鷹山に墜落。520人の命が失われた大事故から早33年の時が経った。しかし、いくら時間が経過しようと、「8・12」の記憶がもたらす痛ましさが変わることはない。今なお残る事故の生々しさ。目下、それを「悪用」するかのような本が話題になっている。
 
それは日航機墜落事故に関する「シリーズ本」で、日航の元キャビンアテンダントだという青山透子(ペンネーム)なる人物が書いたもの。昨年7月、今年5月、そしてこの7月には最新作『日航123便墜落 遺物は真相を語る』(以下、『日航123便』)が出版され、版元の河出書房新社によると、「3部作」の累計発行部数は実に13万7千部に達し、青山氏は推計で2千万円超の印税を手にしたと見られる。しかし、
「中身はいわゆる陰謀論。あれは事故ではなく、自衛隊が『関与』した事件だったのではないかというのです」(大手紙文化部記者)
 
実際、『日航123便』にはこう記述されている。

〈国産巡航ミサイル(陸上自衛隊の88式地対艦ミサイル=編集部注)の洋上飛行実験中に突発的事故が起きて、日航123便の飛行中、伊豆稲取沖で垂直尾翼周辺に異変を発生させた。即座にファントム2機が追尾してその状況を確認した。自衛隊はそのミスを隠すために一晩中墜落場所不明としていた、と考えると筋が通る〉要は日航機が自衛隊のミサイルによって墜落させられた可能性を匂わせているわけだ。だが陸上自衛隊は、「当時、実用試験期間ではありましたが、85年の8月12日に88式地対艦ミサイルの射撃実験は行われていません。また、当ミサイルは艦船の破壊が目的なので、艦船よりも速く移動する航空機を追尾することはできません」と、そもそもの大前提が荒唐無稽であると否定し、軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏もこう一笑に付す。

「もし自衛隊のミサイルが撃ち落していたのであれば、指示を出した人や実行した人全てに箝口令を敷き、且(か)つ痕跡も完璧に消し去らなければならない。そんなことは不可能です。トンデモ本という印象を受けます」

「非常に困る」
 
さらに『日航123便』は、亡くなった520人の遺体は旅客機事故ではあり得ない焼け方をしていたとした上で、〈一般人が手に入るはずもない武器燃料で焼かれた可能性をどう説明すればよいのだろうか〉と、まるで自衛隊が何らかの意図を持って遺体を「2度焼き」した可能性まで示唆しているのである。元日航チーフパーサーで、事故当時は同社の労組役員を務めていた航空評論家の秀島一生氏が呆れる。

「私自身、日航123便の事故の調査報告書は正確ではないのではないかとの疑念を抱いていますが、それにしてもこの本は話が飛躍し過ぎています。自衛隊のミサイルが機体に当たった根拠が全く示されていませんし、遺体の焼け方が激しかった例としては72年の日航ニューデリー墜落事故が挙げられ、123便に限った話ではありません。事故原因の真相解明を求める声が、この本のような陰謀論と一緒くたにされてしまいかねず、非常に困ります」
 
なお、版元を通じて青山氏に取材を申し込んだが返答はなかった。読者の皆さま、アテンション・プリーズ。何とも「面妖」な本が出回っているようです。


日航123便の事故原因を尻もち事故修理の不手際としたのは、あの機体固有の原因として特定しておかないと世界中の何千機と言うジャンボ機すべてが飛行停止になって莫大な経済的損失が生じるからなんて話は聞いたことがある。それも怪しい話とは思ったが、88式地対艦ミサイルよりははるかに信ぴょう性がある。対艦ミサイルはシースキマーと言って海面上高度10メーター以下を飛行するので高空を飛ぶ旅客機とはバッティングしない。速度も似たようなものなので追いつくことはないだろう。第一、相模湾などで試作ミサイルをぶっ放したりしないだろう。またF4が追尾したなら当時はステルス機などないのでレーダーに航跡が残るだろう。また残骸を焼毀するには大量の燃料を運ばないといけないし、ヘリで運べばレーダーに映るだろうし、焼却する際の炎も見えるだろうがそう言うこともない。大体、そんなことをするには大量の人員を動員しないといけないが、その口を完全に塞ぐのは不可能だろう。墜落時、機体には相当量の燃料が残っていたのでそのためだろう。そんなことをすればすぐにばれて関係者は罪に問われ、政権もぶっ飛んでしまうだろうからそんな度胸と言うか暴挙ができる奴はいないだろう。誰が書くのか知らないが本当に「トンデモ本」ではある。しかもそれが売れるというんだから書いたもの勝ちなのかもしれないな、・・(^。^)y-.。o○。

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