平成最後の年に明らかになった、ある日記。
そこに記されていたのは、戦争責任をめぐり苦悩する、昭和天皇の晩年の姿だった。
先の大戦で、戦没者がおよそ310万人にのぼった日本。
戦後、昭和天皇は、国民に寄り添うように、戦争で荒れ果てた全国各地に足を運んだ。
その一方で、昭和天皇の苦悩が晩年まで続いていたことが、ある人物の日記により、明らかになった。
1974年4月から昭和天皇が亡くなるまで、そばで仕えた元侍従、故・小林 忍さんの日記。
1987年4月7日の日記には「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり」、「戦争責任のことをいわれる」などの記述がある。
宮内庁が編さんした「昭和天皇実録」と照らし合わせると、さまざまな苦悩に言及した昭和天皇の発言は、85歳の時、公務を行う宮殿・菊の間で、侍従長らに対して行われたものとみられる。
1975年、初の記者会見で、昭和天皇は「(ご在位中に最もつらく悲しかった思いでは?)第2次大戦であると思います。私は、こういう悲しむべきことが今後も起こらないことを祈っております」と話されていた。
平和への祈りの一方で、戦争責任をめぐる苦悩が晩年まで続いていたことを明らかにした、小林氏の日記。
そこに記されていたのは、戦争責任をめぐり苦悩する、昭和天皇の晩年の姿だった。
先の大戦で、戦没者がおよそ310万人にのぼった日本。
戦後、昭和天皇は、国民に寄り添うように、戦争で荒れ果てた全国各地に足を運んだ。
その一方で、昭和天皇の苦悩が晩年まで続いていたことが、ある人物の日記により、明らかになった。
1974年4月から昭和天皇が亡くなるまで、そばで仕えた元侍従、故・小林 忍さんの日記。
1987年4月7日の日記には「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり」、「戦争責任のことをいわれる」などの記述がある。
宮内庁が編さんした「昭和天皇実録」と照らし合わせると、さまざまな苦悩に言及した昭和天皇の発言は、85歳の時、公務を行う宮殿・菊の間で、侍従長らに対して行われたものとみられる。
1975年、初の記者会見で、昭和天皇は「(ご在位中に最もつらく悲しかった思いでは?)第2次大戦であると思います。私は、こういう悲しむべきことが今後も起こらないことを祈っております」と話されていた。
平和への祈りの一方で、戦争責任をめぐる苦悩が晩年まで続いていたことを明らかにした、小林氏の日記。
昭和天皇の発言を聞いた小林氏は、当時、「戦争責任はごく一部のものがいうだけで国民の大多数はそうではない。お気になさることはない(1987年4月7日の日記より)」と、昭和天皇に率直な思いを伝えたという。
昭和天皇に戦争責任があったかなかったかと言えば、それはあっただろう。あの時代を生きたものには大なり小なり戦争責任はあっただろう。それはいつの時代でも同じことではある。ただ、昭和天皇は歴代天皇の中でも極めて過酷な激動の在位を過ごされ、また、当時の情勢を客観的に見て開戦に反対していたことも明らかで戦後も日本の復興と戦没者の慰霊に尽力されたことを考えてもその責任は十分に償ったのではないかと思う。仮に開戦前に昭和天皇が開戦に「ノー」と言ったら開戦を止められただろうか。海軍でもバックについて徹底的に開戦に反対すれば分からないが、立憲君主制に基づく当時の天皇ではそれは無理であったと思う。
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