京都と言うのは怨霊封じの巨大システム都市なんだそうだ。そもそも桓武天皇が長岡京を建設中、政敵の早良親王を幽閉して殺したところ、その後大洪水や疫病が続き10年経っても長岡京が完成しなかったそうだ。
そこで和気清麻呂が今の京都に遷都することを進言して平安京が出来上がったそうだが、その怨霊封じは徹底を極め、悪霊や怨霊の進入路である北西の方向は延暦寺や鞍馬寺、貴船神社でがっちりと固め、南方は朱雀大路の両側に東寺と西寺を配し、さらに城南宮を置いて固めた。そして都の周囲に大将軍神社を配置して東には青龍殿と将軍塚を配置した。将軍と言うのは蝦夷を平定した坂上田村麻呂で当時の朝廷や貴族には怨霊退治の武将として絶大な人気があったそうだ。
その後も政敵を倒した後で天災や伝染病が流行すると怨霊の祟りと言っては神社や寺を建てまくったので京都には神社や寺が林立するようになったとか。怨霊退治伝説の安倍晴明などの話が登場するのも怨霊を恐れる貴族が救いを求めたからだと言う。
太宰府天満宮も九州に流されて不遇の死を遂げた菅原道真の霊を慰めるためと言う。また讃岐に流された崇徳上皇も祟り神として有名で白峯神宮に祭られているそうだ。まあ現在も科学で立証できないものは多いが、平安時代などは天候も病気も地震や火山の噴火もすべて倒して政敵の怨霊の仕業になってしまって恐れおののいていたのだろう。そして彼らの救いは怨霊封じの寺社仏閣や催事だったんだろう。御霊会や祇園祭、葵祭も元はすべて怨霊封じの催事だったんだそうだ。まあ、この世に争いの種は尽きないからなあ。怨霊も尽きないのかもしれない、‥(^。^)y-.。o○。

※ 京都の東山に鎮座する将軍塚と青龍殿、青龍は東の守り神とか。、‥(^。^)y-.。o○。

※ 北野天満宮前にあった「平安道場」(旧大日本武徳会京都支部武徳殿)を京都府より譲り受け、飛地境内の将軍塚に移築、再建たそうだ。

※ 確かに京都の北半分、特に御所、が良く見える。
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