ロケットエンジン搭載の「秋水」、1年足らず開発したが…
第二次世界大戦末期、日本軍は、毎日のように空襲に押し寄せる米軍B29に対し、ほとんど有効な手立てを持っていなかった。兵器の不足もあるが、一番の問題はB29が高度1万メートル以上の超高々度を飛べる飛行機だったことだ。当時の主流だったレシプロエンジンは、空気の薄くなる高々度では飛ばすことができない。遙か上空から悠々と飛来するB29に対抗する手段のひとつとして、ロケット戦闘機の構想が持ち上がった。ロケットは推進力を得るのに空気を必要とせず、わずか数分で1万メートル以上に到達することができた。軍部はロケットエンジンを使った戦闘機に着目。これを「秋水」と名付け、開発した。
第二次世界大戦末期、日本軍は、毎日のように空襲に押し寄せる米軍B29に対し、ほとんど有効な手立てを持っていなかった。兵器の不足もあるが、一番の問題はB29が高度1万メートル以上の超高々度を飛べる飛行機だったことだ。当時の主流だったレシプロエンジンは、空気の薄くなる高々度では飛ばすことができない。遙か上空から悠々と飛来するB29に対抗する手段のひとつとして、ロケット戦闘機の構想が持ち上がった。ロケットは推進力を得るのに空気を必要とせず、わずか数分で1万メートル以上に到達することができた。軍部はロケットエンジンを使った戦闘機に着目。これを「秋水」と名付け、開発した。
ロケットエンジンでもドイツを参考に
航空機の世界では当時、ドイツがジェットエンジンやロケットエンジンの開発で先行していた。同盟を結んでいた日本は潜水艦を使い、ドイツのロケットエンジン戦闘機「メッサーシュミットMe163」(コメート)の資料を取り寄せ、これをもとに秋水を作ろうとした。ロケットエンジンは、ジェットエンジンのような空気採り入れ口がなく、内部で燃焼した燃料を噴射することで推進力を得る。空気の薄い高々度でも飛行させられる半面、燃焼の制御は非常に難しく、燃焼時間も10分程度が限界。このため、戦後は航空機の分野ではジェットエンジンの普及に押され、衰退の道を歩むことになる。「Me163」は、実用化されたロケット戦闘機としてはほぼ唯一の機体となった。「秋水」の開発にあたり、従来は別々の航空機を開発してきた陸海軍は、共同で開発作業にあたった。ロケットエンジン「特呂」の開発は、機体と同様に三菱重工業が担当したが、ドイツから取り寄せた資料は概念図程度のものしかなかったため、ほとんど自主開発に近かったという。三菱重工は当初、自社の航空機拠点がある名古屋で開発していたがB29による空襲に遭い、神奈川・横須賀の海軍施設に移動して開発を続けた。1945年7月7日、秋水は横須賀の追浜飛行場で初飛行に臨んだ。開発開始から1年足らずの“早業“だった。テストパイロットを務めたのは海軍の犬塚豊彦大尉。多くの関係者が見守る中、犬塚大尉が操縦する
「秋水」は滑走路を無事に離陸し、約45度の角度で急上昇を始めた。初飛行は成功したかに思われた。地上では技術者らが歓喜の声を上げたというが、約16秒後には高度400メートルでロケット噴射が停止してしまう。犬塚大尉は滑空状態で何とか飛行場に戻ろうとしたが、かなわず墜落。重篤状態で医務室に運び込まれたが、翌日、殉職した。
戦後、技術者は自動車や新幹線に転じる
「滑空している『秋水』は高度と速力がだいぶ落ちてきた。飛行場の南西上空で右に旋回すると右翼が大きく傾いた。秋水は浮力を失ったのである。パイロットの犬塚大尉の必死の修正作業もむなしく『秋水』は右翼を下げたまま、航空隊の拡張工事中の労務者用宿舎の屋根に激突し墜落した」
戦後、技術者は自動車や新幹線に転じる
この時の状況は、海軍航空隊の軍医を務めていた神田恭一氏の著書『横須賀海軍航空隊始末記』に詳しい。
「海軍航空の研究の精華ともいうべき新世紀の航空機『秋水』は日本海軍最後の切り札であった。(中略)いよいよ実験開始の時刻が迫ってきた。私は救急車のエンジンをかけ最高潮を保つように運転員に指示した。(中略)秋水は45度の角度をもって斜めに東京湾の上空をさしていった。続いて一段と高いロケット噴射の轟音が空気を裂いて飛行場をびりびりとふるわせる。秋水は離陸に成功した。一斉に歓声と大きな拍手がわき起こり、水平飛行に移ると再び歓声の波が起こった」「滑空している『秋水』は高度と速力がだいぶ落ちてきた。飛行場の南西上空で右に旋回すると右翼が大きく傾いた。秋水は浮力を失ったのである。パイロットの犬塚大尉の必死の修正作業もむなしく『秋水』は右翼を下げたまま、航空隊の拡張工事中の労務者用宿舎の屋根に激突し墜落した」
その後、「秋水」は再び飛び立つことはなく、開発は終戦とともに終わった。戦前・戦中の航空機産業では、企業はまさに軍とともにあった。毎年の予算でどんどん新型機計画を出す陸海軍、それに応えるべく必死に機体を開発するメーカーの関係性は、まさに運命共同体だった。軍は、これら以外にもエンジン6基を搭載する超大型爆撃機「富嶽」(ふがく)や、上空からロケット推進で加速した後、滑空状態で敵機に体当たりする特別攻撃機「桜花」、米本土まで実際に到達した風船爆弾などの航空兵器も開発していた。
戦前・戦中に数々の航空機開発に携わった技術者の中には、終戦後に自動車や鉄道(新幹線)といった分野に転じ、戦後復興のために身を捧げた人も多い。これが、1960年代の国産旅客機「YS―11」や、現代の国産小型旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」にも脈々と受け継がれている。「F2」戦闘機の後継機を巡り、日本主導の国際共同開発の行方が注目される日本。開拓者精神は蘇るか。
このロケット戦闘機も戦争末期の混乱の中でよく作った類だが、こんな際物的な戦闘機ではなく当時の普通の戦闘機でも高高度性能が確保できる過給機を作れればB29に十分対抗できただろう。その三菱重工が現在は自動車用排気タービン過給機で稼いでいるのは皮肉と言えば皮肉なことではある。ただ、そうした技術がかろうじてでも現在まで受け継がれてきたことは喜ぶべきことでこれを絶やしてはいけない。ぜひ将来に繋いで行ってほしい、・・(^。^)y-.。o○。
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