太平洋戦争末期に旧日本軍が準備を進めた“幻”の本土決戦の作戦に焦点を当てた講演会が4日、大磯町郷土資料館(同町西小磯)で行われた。講師の歴史家は大磯地区に残る作戦ゆかりの遺跡を映像などで紹介しながら、戦争のもたらす罪深さを訴えた。
「戦争を語り継ぐ大磯の会」と題し9年目となる講演会で、約120人が参加。長年、本土決戦や戦争遺跡などについて調査研究をしている市原誠さんが、同地区での本土決戦準備について解説した。
関東上陸を1946年春に湘南海岸などからと計画していた米軍に対し、旧日本軍も本土決戦に備え、各地で陣地構築や隊編成を進めた。同地区では45年4月ごろから第140師団歩兵402連隊を中心に4千人以上が展開されたとみられる。
海軍の兵士なども動員され、坂田山や鷹取山の山中や西小磯の海岸に穴を掘り、迎撃用の砲台などの配備を進めようとしていた。402連隊だけでも約10キロの坑道を掘削し、一部は現在も残されている。
「戦争を語り継ぐ大磯の会」と題し9年目となる講演会で、約120人が参加。長年、本土決戦や戦争遺跡などについて調査研究をしている市原誠さんが、同地区での本土決戦準備について解説した。
関東上陸を1946年春に湘南海岸などからと計画していた米軍に対し、旧日本軍も本土決戦に備え、各地で陣地構築や隊編成を進めた。同地区では45年4月ごろから第140師団歩兵402連隊を中心に4千人以上が展開されたとみられる。
海軍の兵士なども動員され、坂田山や鷹取山の山中や西小磯の海岸に穴を掘り、迎撃用の砲台などの配備を進めようとしていた。402連隊だけでも約10キロの坑道を掘削し、一部は現在も残されている。
圧倒的な兵力差で占領された硫黄島や沖縄とは異なり、本土決戦となれば「水際作戦に徹する日本軍との戦力は対等になったかもしれない」と市原さん。それだけに湘南海岸が激戦地となった恐れが高く、市原さんは「悲惨な結果しかもたらさなかっただろう。そもそも起こしてはならない戦争だった」と訴えた。
相模湾に米軍が上陸するというので小田原から大磯あたりの海岸に面した低山地に陣地を作ったというが、配備兵力は応召師団でろくな兵器もなかったという。また陣地も素掘りの壕で艦砲射撃や爆撃に耐えられるようなものではなかったそうだ。本土決戦などと言ってもまともな戦闘は一回戦ぽっきりで後は日本側にすればゲリラ戦、米軍側にすれば残敵掃討戦のような形になっただろう。母親が、「戦闘機同士の空中戦があって一機が燃えて落ちたので『敵が落ちた』と皆で手を叩いて喜んでいたら味方の戦闘機だった。竹槍で敵を突く訓練をさせられたが、相模湾に米軍が上陸して来たら自分たちは生きてはいなかっただろう」なんて話をしていたが、実際に山には慰霊碑があるが、その機体のものかどうかは分からない。太平洋戦争それ自体が端から勝ち負けを度外視したような無謀な戦争だったが、本土決戦などは冷静な思考判断ができなくなっていた陸軍が国民を道連れに名を残そうとしただけの戦いでやる前に無条件降伏になって本当に良かったと思う。誰もが血が逆流して冷静な思考判断ができなくなっていた中で終戦へと導いた昭和天皇他の指導者は時局を冷静に見ていてこの国を破滅から救ったことに感謝ではある、・・(^。^)y-.。o○。
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