御殿場市のNPO法人防衛技術博物館を創る会が、欧州に渡った旧日本陸軍の「九五式軽戦車」の帰還プロジェクトに取り組んでいる。国産戦車として最多の約2300両以上生産され、太平洋戦争で各地の戦線で使われたが、国内には1台も残っていない。小林雅彦代表理事(47)は「当時の日本の工業レベルが分かり、戦争を学ぶきっかけにもなる。工業遺産として国内で継承したい」と語る。
帰還させる計画の1両は、ミクロネシア連邦から1981年に国内に戻り、京都府の博物館を経て和歌山県の博物館で展示されていた。同館閉館に伴い売りに出され、英国人が買って2005年に欧州へ渡った。小林代表理事はわずかな差で購入できなかったという。
17年11月、都内の骨董(こっとう)店を通じて購入の打診があった。旧日本軍の戦車は生産数が少ない上に戦後多くが廃棄され、コレクターの市場に出回ることも少ない。小林代表理事は「この機会を逃すと日本に戻ってこない」と考えた。
同法人は日本の技術力や機械産業の歴史を語り継ぐため、御殿場市内で防衛技術博物館の開館を目指している。九五式軽戦車の所有権を得た際には、ひとまず英国の戦車博物館に寄贈し、当面展示してもらう。防衛技術博物館開設を実現させた後、同館に移して展示の目玉の一つとする計画を抱く。
所有者の英国人は自走可能にするため、世界中から部品を集め、劣化した戦車の復元をポーランドで進めている。小林代表理事は「できるだけ日本製にしたい」と、代用品が見つかっていない国産の燃料噴射ポンプを探している。
帰還プロジェクト実現への課題は購入資金の準備。復元作業が終わる9月ごろまでの調達を目指し、1口10万円の寄付を募っている。問い合わせは同法人<電0550(82)2854>へ。
<メモ>九五式軽戦車 国産実用戦車第2号として1935年に誕生した。重量が約7トンと比較的軽く機動力に優れ、主に偵察や連絡用として中国大陸や南太平洋などで使われた。太平洋戦争後、戦地に放置されたり、各国の軍事博物館に展示されたりして、数十台が現存するとみられる。
帰還させる計画の1両は、ミクロネシア連邦から1981年に国内に戻り、京都府の博物館を経て和歌山県の博物館で展示されていた。同館閉館に伴い売りに出され、英国人が買って2005年に欧州へ渡った。小林代表理事はわずかな差で購入できなかったという。
17年11月、都内の骨董(こっとう)店を通じて購入の打診があった。旧日本軍の戦車は生産数が少ない上に戦後多くが廃棄され、コレクターの市場に出回ることも少ない。小林代表理事は「この機会を逃すと日本に戻ってこない」と考えた。
同法人は日本の技術力や機械産業の歴史を語り継ぐため、御殿場市内で防衛技術博物館の開館を目指している。九五式軽戦車の所有権を得た際には、ひとまず英国の戦車博物館に寄贈し、当面展示してもらう。防衛技術博物館開設を実現させた後、同館に移して展示の目玉の一つとする計画を抱く。
所有者の英国人は自走可能にするため、世界中から部品を集め、劣化した戦車の復元をポーランドで進めている。小林代表理事は「できるだけ日本製にしたい」と、代用品が見つかっていない国産の燃料噴射ポンプを探している。
帰還プロジェクト実現への課題は購入資金の準備。復元作業が終わる9月ごろまでの調達を目指し、1口10万円の寄付を募っている。問い合わせは同法人<電0550(82)2854>へ。
<メモ>九五式軽戦車 国産実用戦車第2号として1935年に誕生した。重量が約7トンと比較的軽く機動力に優れ、主に偵察や連絡用として中国大陸や南太平洋などで使われた。太平洋戦争後、戦地に放置されたり、各国の軍事博物館に展示されたりして、数十台が現存するとみられる。
95式戦車は本来は装甲車に分類されるべき戦闘車両であったのにこれを戦車として分類してしまった帝国陸軍のせいでこの車両の悲劇が始まった。快速と高い信頼性で非常に使いやすい車両だったそうだが、低威力の37ミリ速射砲と対機銃弾防御の12ミリの装甲では戦車として米国のM4どころかM3軽戦車に対抗するのも不可能だった。撃破されて戦場に残骸をさらす95式戦車は日本の工業力の低さと輸送インフラの貧弱さの象徴のようでもあるが、快速と使いやすさを活用して、もう少し装甲を厚くしたうえで偵察用装甲車として使用すればもっと活躍の場があったかもしれない。戦後は武装を外して建設用機械として使用されたり警視庁では警備用装甲車としても使用されていたという。歴史の証人として保存するのはいいことだろう、・・(^。^)y-.。o○。
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