「ちょっと待ってください。誤解があるようですからここではっきりさせておきたいんですが、私はお引き受けするなどと言った覚えはありません。今回の件は個人の家庭内のことでその範囲において対応されるべきものです。私は社員の問題と言うことで上司の命令でこの件にかかわってきましたが、これ以上は業務の範囲を超えています。業務命令ならばどんなことでも受けますが、個人的なことであれば引き受けるかお断りするか、その判断は私自身にあります。」
そこまで言ったところで例の官房秘書官が口をはさんだ。
「個人のご事情もおありとは思いますが、ことは個人のレベルではありませんのでそのあたりを汲んでいただいてぜひお引き受けいただきたい。」
その時、金融王と社長は「余計なことを、・・」とでも言いたげにちょっと顔をそむけた。この一言が僕にどのような影響を及ぼすのか承知しているからだろう。
「ことがどのようなレベルのことなのか私のようなものにはよく理解ができませんが、それはそれとして私にも個人の事情があります。皆さんに天下国家が大事なことはよく分かりますが、私には私の事情があり、それも大事です。大体、ご立派な方でしっかりしたご家庭があるのにどうしてご自分の娘さんをご自分で見ないのか、何よりそれが納得いきません。その理由を聞かせていただいてからお受けするかお断りするか判断したいと思いますがいかがでしょうか。」
僕がそう言うと慇懃さんと冷徹さんが顔を見合わせた。もう話はできているんでちょっと出かけて言って頭を下げればいいと思ってきたのだろう。そうそうそっちの思う通りには行くもんか。僕が徹底抗戦を貫こうと固く心に決めていると「佐山さん」と突然金融王に呼ばれた。僕は思い切り駈け出そうとした犬が飼い主に呼び止められてつんのめりそうになったような風情で「おっとっと、・・。」と言う感じで何とか踏み止まった。
「実は彼女自身があなたのそばにいたいとそう言っているんで、・・。佐山さんにはうちの娘と言い、今回の件と言い、誠にご負担をお願いするが、そのあたりの事情を汲んでもらって何とか了解していただきたい。詳しい成り行きは後で説明するのでぜひ、・・。」
金融王はここで深々と頭を下げた。政治家の秘書や官僚などはどうでもいいし、政治家自身であっても戦うときは戦ってやろうと思っていたが、金融王にここまで頭を下げられてはこれ以上盾を突くわけにもいかんだろう。僕がちょっと頭の中で状況を整理していると社長にわき腹を突かれてしまった。事ここに至ってはもうやむを得ない。
「分かりました。お世話になっている澤本頭取がそこまでおっしゃるならお引き受けします。でも全面的に丸投げされても困りますので私にも条件があります。それは聞いていただけますね。」
「もちろん、こちらもできるだけのことはさせてもらう。森口君、それでいいかね。」
金融王は慇懃さんの方を見た。
「はい、それはもちろんでございます。こちらとしましてはご迷惑をおかけするのですからご要望があればできる限りのご援助はさせていただきます。」
慇懃さんはそう言って深々と頭を下げた。この様子だと「じゃあ取り敢えず手付として一千万も用立ててもらおうか」とでも吹っかけても飲みそうだった。でも金のことなど冗談でも言い出すと金融王が「それは僕の方で用立てるから。」などと言われてしまいそうなので控えることにした。
「では何か必要なことがあれば連絡します。どなたに連絡すればいいのか連絡先を教えてください。」
「では、こちらにお願いします。」
慇懃さんは慇懃な態度で名刺を差し出した。
「電話でもメールでも結構です。電話は応答できない場合もありますので留守録を残していただければこちらから折り返し連絡します。よろしくお願いします。それで、一つお願いが、・・できればそちらの連絡先も教えていただければ、・・。」
慇懃さんはそう言うと深々と頭を下げた。僕は自分の名刺に携帯番号を書いて慇懃さんに渡した。
「森口君、特に急ぎでなければ僕の方に連絡をくれれば伝えるから。」
金融王はそう口をはさんだが、お忙しいのにそんな手間を取らせるわけにもいかないので「大丈夫ですからどうぞ練和でもメールでもどうぞ」と言っておいた。もっとも金融王はまた僕が彼らにかみつくと困ると思ったのかもしれないが、・・。これで秘書官と秘書は引き上げることになった。秘書官はいちどおじぎをするとさっさと退出しようとしたが、慇懃さんの方は何度もお辞儀をしては「よろしくお願いします」と繰り返していった。政治家の秘書もいいこともあるんだろうけど楽じゃなさそうだ。
「では我々もこれで失礼します。」
社長が金融王にそう言って腰を上げた。金融王は軽くうなずくと僕の方を見た。
「佐山さん、本当に申し訳ないが、一つよろしく。あなたには負担ばかりお願いするが、この埋め合わせは必ずするから。」
普通の我々庶民クラスの場合、埋め合わせと言うと居酒屋で一杯とかその程度だが、このクラスになるとその埋め合わせがどの程度なのか見当もつかない。まあでも負担も相応だからその埋め合わせを楽しみにしておくか。
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