太平洋戦争末期に日本海軍が造った特攻艇「震洋」のエンジンなどとみられる残骸が、千葉県館山市沖の海底で見つかった。館山には当時、震洋の特攻隊基地があり、敗戦時に上官の命令で特攻艇を沖合に沈めたという元兵士の証言と合致する。戦争遺跡研究者は残骸が震洋のものと確認されれば、「貴重な発見。次の世代に語り継ぎたい」と話す。
残骸を見つけたのは、ダイビングサービス「波左間海中公園」を経営する荒川寛幸さん(79)。約半年前、波左間漁港の北西沖約1キロの水深32メートルの海底で、長さ1メートル余りのエンジンと直径約30センチのスクリューとみられる金属塊のほか、爆薬とみられる塊を見つけた。爆薬に信管らしいものは付いておらず、直ちに危険とは考えていないという。
残骸を見つけたのは、ダイビングサービス「波左間海中公園」を経営する荒川寛幸さん(79)。約半年前、波左間漁港の北西沖約1キロの水深32メートルの海底で、長さ1メートル余りのエンジンと直径約30センチのスクリューとみられる金属塊のほか、爆薬とみられる塊を見つけた。爆薬に信管らしいものは付いておらず、直ちに危険とは考えていないという。
館山市波左間には太平洋戦争末期、第59震洋隊(総員176人)の基地があった。防衛省防衛研究所の所蔵史料によると、震洋の格納壕(ごう)や燃料、食糧などの地下壕が建設され、1人乗り震洋53隻と2人乗り震洋5隻が配備予定だった。海岸には発進用のコンクリート製スロープも建設された。一部は現在も残っている。
荒川さんは残骸が震洋のものではないかと、知り合いのメディア関係者に相談。関係者が震洋の元搭乗員に照会した結果、「震洋のものに間違いない」との答えを得たという。
追い詰められた日本軍が反撃の手段として考え出したのは各種の特攻兵器で航空特攻、水上・水中特攻など各種の特攻兵器が考案された。特に有名なのは航空特攻と桜花、回天などだが、耐水ベニヤで作った特攻ボートも実戦に参加して小型の船舶などを撃沈破しているようだ。ドイツなどは誘導装置を開発して現在で言うミサイルの原型などを戦闘に投入しているが、日本は電子技術が劣っていて実戦に耐えうる誘導装置の開発が出来なかったようだ。もしも当時の日本に優れた科学技術があれば特攻などと言う悲惨な戦闘は必要なかった。科学技術は国を救い、そして富ませる。今後人口減少が予想される日本だが、先端技術の開発には多くの人間は必要としない。「2番じゃいけないんですか」などと言わずにぜひすべての分野で一番が取れるよう技術開発に努めるべきだろう。ところで太平洋戦争当時、日本が優れた科学技術を有していたら米国に勝てただろうか。あれほど悲惨な負け方はしなかったかもしれないが、答えは「否」だと思う。でも、日本も近接信管を実用化していたという。それは光の点滅を利用したもので受講部にある一定の将度以上の光が当たると爆発するというものだった。そしてそれは航空用爆弾に使用されたという。三式八〇番三一号爆弾一型というのがそれだそうだ。日本もがんばってはいたんだけど、・・(^。^)y-.。o○。
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