零戦、2017年の東京湾上空を飛行
2017年6月3日(土)、4日(日)に幕張海浜公園(千葉市美浜区)で開催された「レッドブルエアレース」において、旧帝国海軍の戦闘機「零戦二二型」が飛行展示されました。零戦が日本において一般公開飛行を行うのは実に20年ぶりであり(20年前は別の機体)、また本機の操縦は戦後はじめて日本人の零戦操縦士となった柳田一昭さんが担当しました。
零戦、正式名称「A6M 零式艦上戦闘機」は、日本で最も有名な戦闘機として世界的に高い人気を誇り、映画やマンガ、ゲームをはじめとして様々な作品においてもその姿を見ることができます。
しかしながら零戦は特攻機として使われたという事実、また凄惨な世界大戦における日本の敗北という事実から、高い人気や知名度と同じだけの「負の象徴」を背負わされてもいるといえます。残念ながらその「負の象徴」としての零戦の風聞のなかには、事実に基づかない風評被害ともいえる虚構も少なくないようです。
そのなかでも「零戦は性能を重視したため、重い防弾板を排除した人命軽視の欠陥機である」という評価は最たるものでしょう。
「防弾板」の有無で評価ができないワケ
確かに零戦は防弾板を搭載していませんでした。しかしこれはけっして性能を重視したためでも、人命軽視のためでもありません。ただ単に零戦の開発が始まった1937(昭和12)年の時点において、防弾板の必要性については世界的に認知度が低かっただけにすぎず、ほぼ同時期に開発された他国の戦闘機も、一部を除いてほとんど搭載していませんでした。
戦闘機における墜落要因の多くは火災です。零戦はそのぜい弱というイメージとは反対に、設計時から胴体内燃料タンクの火災を食い止める消火器の搭載が要求されており、事実、最初のタイプからこれを搭載しています。後期型では比較的被弾する可能性の高い主翼内タンクにも設けられ、実際被弾して発火しても帰還が可能であったと言われます(ただしこれは火災で戦死した人は証言を残せないことを考慮する必要があります)。
第二次世界大戦がはじまると、各国は戦闘機における防弾板の必要性について検討しなくてはならなくなり、それは帝国海軍もまた例外ではありませんでした。ところが1942(昭和17)年ごろまで日本側はまだ勢いがあり、敵味方の航空機の数もほぼ同等、そして帝国海軍は零戦が圧倒的に勝っていると思い込んでいたので(実際は撃墜の誤認が多く勝敗は僅差でした)、「公式的には」この時点において空戦による戦死者、特にパイロットに銃弾が直撃し負傷したと想定される墜落はそれほど多くはありませんでした。よって防弾板の導入が急がれることはなかったのです。むしろ主戦場であった赤道付近に蔓延する病気による被害のほうが深刻で、特にマラリアはパプアニューギニアやラバウルなどの飛行場に配備されたパイロットのほぼ全員が罹患していました。
1944(昭和19)年頃になるとアメリカ側の反抗がはじまり、ようやく零戦にも防弾板が搭載されるようになりますが、もはやこの時点において戦争に勝つすべはなくなっており、防弾板の有無などは些細な差でしかありませんでした。
防弾板よりも致命的だった「ある問題」
零戦が当初、防弾板を搭載していなかったことは事実です。また他国に比べて防弾板の装備が遅かったことも否めません。しかし零戦が性能を優先し人命軽視の設計だったという事実はなく、また防弾板の有無によって何か大きな影響があったかというと、おそらくなかったのではないでしょうか。
零戦の短所としては広く知られる防弾板の有無よりも、戦争後期を除いて「無線機が全く機能しない」という本当の欠陥のほうがはるかに問題であったといえます。零戦パイロットらはチームワークが取れないことによってほとんど連携せずに戦っていたため、アメリカ軍戦闘機パイロットが連携を重視するようになると、勝っていたはずの機種にすら対応できなくなります。
また、かのミッドウェー海戦では、空母上空を守らなくてはならない零戦がチームワークの不備から低空に殺到してしまったため、結果として上空ががら空きになり、無防備となった3隻の空母がその隙を突かれ一瞬のうちに沈められてしまいます。
戦争終結から今年で72年。ようやく日本の空に飛べる零戦が、日本国内における初の動態保存を目的に帰国し、そして最初の展示飛行を行いました。これを機に「零戦」という飛行機に染み付いてしまった事実に基づかないイメージをいったん取り払い、なぜ零戦は1万機も生産される大成功を収めたのか、その本当の姿について、あらためて見つめなおしてみるのはいかがでしょう。
零戦と言う戦闘機を世界の傑作機に押し上げたのもその後悲劇的な運命をたどらせたのもすべては当時の航空機用エンジンだ。当時の日本の工業力は欧米に5年から10年遅れていた。航空機用エンジンは欧米製品のコピーだったし、プロペラに至ってはすべて欧米の模倣で20年は遅れていたという説もある。当時の日本としては精一杯だったが、馬力の大きくない栄と言うエンジンで速くて重武装でくるくるよく動けて遠くまで飛べる戦闘機を作った。それが零戦で実際に速度も運動性も航続距離も世界の水準をはるかに凌ぐ戦闘機が出来たが、その分機体強度が弱く急降下で逃げる敵を追撃できず機体規模も小さく発展の余地が少ない戦闘機となった。防弾装備などは当時の海軍の戦術思想で防御よりも攻撃力の強化が大原則だったから防弾装備がないなどは零戦だけの問題ではない。また電装品や電子装備のレベルも低かったので無線が聞こえない、電装コードの絶縁が不良で放電して電圧レベルが下がる。油圧部品からオイルが漏れるなどは日常茶飯事だった。緒戦では熟練搭乗員の技量と相まって圧倒的な強さを発揮した零戦も中盤になると搭乗員の質の低下とともに急降下速度が低く急降下で逃げれば追撃できない、防弾装備の不足ですぐに燃え出すなどの欠点が目立つようになった。そして後継機も適当な大馬力エンジンがなく開発は遅延して零戦を使い続けるしかないという状況に陥った。昭和18年に投入された零銭52型はそれまでの軽快でくるくるよく動く零戦とは違い、速度と重武装を重視した重戦として戦闘機の性格が変わっていた。この時にエンジンをより馬力の大きい三菱の金星に換装しておけば戦争後期の零戦はもう少し変わったかもしれないが、航続距離が落ちることを理由に海軍が反対したために実現しなかった。そして後継機にも恵まれなかった零戦は戦争の全期間を通じて主力戦闘機として使われ続け1万機と言う大量生産がされた。本来なら12試の零戦の後に15試、18試と3年に1回程度新型機が開発されるべきところ適当なエンジンがなく開発陣も手不足で遅れに遅れて17試で烈風が試作されたが、誉エンジンの不調で失敗、戦争末期の昭和19年に三菱のハ43に換装して性能を向上させた時はもう時すでに遅かった。当時の日本の工業力のレベルがもう少し高くて適時適当な航空機用大馬力エンジンの開発が行われていたら零戦は戦争中盤には次にバトンタッチして第一線から引退していただろう。当時のエンジニアの発想自体は日米とも大差はなかったというが、それを実現させる工業技術力に大差があったのは事実だろう。零戦を世紀の傑作機に押し上げたのは開発陣の汗と努力、そして悲劇の欠陥機に貶めたのは当時の日本の工業力と言うことになるだろう。ちなみに今零戦を飛ばした印象はセスナに毛が生えた程度だと言う。確かにそんなものかもしれない。零戦を戦争の象徴として非難する意見もあるが、別に零戦が戦争を始めたわけではない。戦争を始めたのは人間でその意味では零戦に責任を押し付けずに我々人間が常に過去を顧みて大いに反省すべきだろう。
日本ブログ村へ(↓)