鹿児島県南九州市知覧町の知覧特攻平和会館が所蔵・展示する旧陸軍の戦闘機・疾風(はやて)について、同館が初めての詳細調査に取り組んでいる。現存する疾風は世界に1機だけといい、同館は「調査を通じ、当時の航空技術や開発に関わった人々の思いなどを明らかにしたい」としている。
同館などによると、疾風は、中島飛行機が開発し、太平洋戦争末期に約3500機が生産された。時速は当時の日本の戦闘機としては最高クラスとなる620キロで、当時の技術を結集した名機。本土防空で活躍したほか、特攻にも118機が使われた。知覧にあった特攻基地にも駐留した歴史があるという。
同館などによると、疾風は、中島飛行機が開発し、太平洋戦争末期に約3500機が生産された。時速は当時の日本の戦闘機としては最高クラスとなる620キロで、当時の技術を結集した名機。本土防空で活躍したほか、特攻にも118機が使われた。知覧にあった特攻基地にも駐留した歴史があるという。
同館に展示する機体は、戦争末期にフィリピンで米軍に接収されたもので、1973年に日本のコレクターが購入して“里帰り”した。その後は、京都市の美術館などを経て、95年に知覧特攻平和会館が買い取り、97年3月から専用展示室で公開している。
初の詳細調査は、2017年が同館の開館30周年に当たることなどから実施した。機体の痕跡から、来歴や特徴を調べるのが狙いで、今年1月から、エンジンの覆いに刻印された製造番号などを確認してきた。オリジナルの機器が多く残り、当時の塗装も分かる可能性があるという。一方で、金属の腐食や塗装の剥がれといった、保存・展示を続けるうえでの課題も出てきた。
今後は、継続して機体の調査をするとともに、米国の公文書などにもあたり、軌跡をたどっていく。同館の専門員、八巻聡さん(40)は「疾風は戦時における最高峰の技術の結晶。一つの機体の軌跡を詳しくたどって時代背景、技術の創意工夫を解き明かすることで、日本の歴史も見えてくるのではないか」などと話している。
同館では、「明らかになる疾風の全容」と題して、これまでの調査結果を、映像やパネルで紹介する企画展を開催している。
帝国陸軍の4式戦闘機は2000馬力級のハ45エンジンを積んだ大東亜決選機と言われた戦闘機で日本の実用戦闘機の中で624キロと言う速度は最高だった。量産も3500機ほどが生産され、零戦、隼に次ぐ数だったそうだ。ハ45エンジンが不調で実力を発揮できず、また、紫電改のような集中使用をされなかったので伝説的な活躍もないが、米軍は高速で燃えにくい新型戦闘機として一目置いていたようだ。戦後の米軍の調査では690キロ近い速度を出したと言うが、いずれの日本機も米軍のオイルや燃料を使いプラグやコードなど電装系を米軍のものに取り換えると日本の公式性能よりも10%ほど速度が上がったと言う。そうすると零戦や隼なども600キロほどの速度が出たことになる。軽量で機体形状も空気抵抗が少ないので当然だろう。米軍のパイロットは空戦で戦った日本機とはあまりにも性能が違うので日本のパイロットを気の毒がったと言う。機体設計は欧米に追い付いていたそうだが、エンジンは5,6年遅れ、プロペラは20年遅れていたと言う。また電装系、燃料、オイル、シーリング、防振など周辺技術があまりにも遅れていて技術者の発想を実現できなかったそうだ。まあ当時の日本は今の北のバカ大将ほどではないにしろ、欧米を向こうに回して戦争をするような力はなかったと言うことだろう。それでも傾いていく国を必死に支えて米国に一泡吹かせた疾風や紫電改など当時の新型戦闘機を見ると命を捨てて国を支えようとした当時の日本人の想いが伝わってくるような気がする。改めて亡くなった方たちの冥福を祈る。
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