機窓の雲の切れ間から、火山島が姿を現した。サイパン島の北約290キロにある無人の「パガン島」だ。
同島には太平洋戦争中、旧日本軍が飛行場と守備部隊を置いた。公刊戦史によると、島で米軍の空襲が本格化したのは1944年6月12日。対空戦を挑んだ守備部隊は同年9月以降、弾薬節約のために反撃を中止した。敗戦まで、1日平均20機から爆撃を受けた。
活火山の南にある飛行場の滑走路跡は今、東半分が戦後の噴火による溶岩流に埋もれ、西半分には爆撃によるクレーター状の穴が多数残る。その滑走路の西端に、零戦の残骸が見えた。
零戦の残骸は激戦地のパラオ諸島にも、「餓島(がとう)」と呼ばれたガダルカナル島の密林にもあった。同島の北西約500キロのトゥハ島には、同じ頃使われた零式水上偵察機も眠っていた。
よく戦局の転機はミッドウエイ海戦と言われるが、4隻の空母と300機以上の航空機、搭乗員を失ったのは打撃ではあったが、それでもまだ日本海軍は戦力的には米国を凌駕していた。日本が本当に止めを刺されたのはガダルカナルなどソロモン諸島をめぐる攻防戦で25万トンの艦船と7千機の航空機を失った日本はその損害を回復するだけの工業力もなくこの地域からの撤退を決めた時には戦力的に米軍とは埋めがたい大きな格差が生じていた。消耗戦に引き込まれてはいけないと言って厳に戒めていた海軍がこの地域で消耗戦に引き込まれたのは米豪分断などと言う夢物語にうつつを抜かしていたからだろう。当時取りうる最良の方法は米英に斡旋を依頼して中国と和平し、第二次世界大戦は中立を守ることだったのだろうけど開戦に向けて走り出した国家のエネルギーを止めることはできなかったのだろう。政治は方向を誤ると国民にとんでもない苦難と悲劇を押し付けることになる。この先二度と政治が国家の方向を誤らないことを祈りたいが、・・。
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