太平洋戦争中、旧日本海軍の戦艦「大和」が鹿児島県沖に沈没して71年目に当たる7日、広島県呉市の長迫公園(旧海軍墓地)で、戦没者の追悼式が行われた。元乗組員や遺族、市関係者ら約150人が参加。雨と風で桜の花びらが舞う中、戦死した乗組員に黙とうをささげ、「戦艦大和戦死者之碑」に献花した。


追悼式は、乗組員の慰霊や志を後世に伝える活動を続ける「戦艦大和会」の主催。同会会長で元乗組員の広一志さん(92)=呉市=は、式辞で「若い世代に継承することを通じ、平和日本の繁栄と国際平和に貢献することが、戦没者の思いに応える道だ」と述べた。

 
呉市は今年、沈没した大和の潜水調査を計画している。広さんは式後、報道陣に対し「映像が残れば子々孫々までずっと伝わる。亡くなった人が安らかに眠れると思う」と述べた。

 
 式に参加した山中恵さん(97)=東京都大田区=は、大和の沈没で当時32歳の夫を亡くした。「今年も来ることができた」と感慨深げな表情で、夫に「会いに来ましたよ」と碑の前で呼び掛けたと語った。同居する娘の林慧子さん(70)は「大和の悲劇を忘れてはいけないという思いで参加した。自分が生まれる前に父親は亡くなったが、思いはきちんと引き継いでいきたい」と話した。

 
戦艦大和は1941年に呉海軍工廠(こうしょう)で建造。全長263メートル、最大幅38.9メートルと、世界最大の戦艦として知られる。45年4月7日、沖縄へ向かう途中、米艦載機の攻撃を受け沈没した。


71年前の今日、大和が米軍に撃沈されたのか。出撃は無謀という意見が大勢を占めていたと言うが、当時、連合艦隊に残された最後の艦隊兵力で沖縄を最後の決戦場と定めていた海軍としては無謀と分かっていても温存するわけにも行かなかったのだろう。第二艦隊司令長官伊藤中将も戦果が期待できないこの作戦に最後まで反対していたと言うが、「一億特攻の先駆けとして」と言う言葉に、「それなら分かった」と言って出撃を了解したと言う。今は米国は最も近い同盟者だが、この当時のことを思うと「おのれ、鬼畜米軍」とムカつく。大和を引き揚げようと言う動きもあるそうだが、そのままそっとしておいてやった方がいいと思うが、・・。艦隊乗組員の冥福を祈る。


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