戦後70年、自衛隊の発足からも早60年が経ったが、その間、ひた隠しにされてきた歴史的事実がある。それは、旧日本軍の精鋭たちが自衛隊創設に多大な貢献をしたということだ。なぜその史実は伏せられてきたのか。存命の元日本軍エースパイロットたちの証言を集めた『撃墜王は生きている!』(小学館刊)が話題を呼ぶジャーナリストの井上和彦氏が解き明かす。

 
「自衛隊」という名称は、憲法9条との整合性を保つため、「戦力ではなく、専守防衛のための自衛力である」という言い訳のために用意された言葉である。これを補強するために、「自衛隊は旧日本軍とはつながりのない別の組織である」というお題目も唱えられてきた。「太平洋戦争史観」という自虐史観で語られる日本軍と自衛隊は縁もゆかりもないというわけだ。

 

しかし、現実はまったく逆である。国土防衛の必要性を痛感した旧軍の元軍人が集結し、その基礎をつくったのが自衛隊だといっても過言ではない。

 

拙著『撃墜王は生きている!』では、銃器や防弾板をはずした丸裸の機体でB29に体当たり攻撃を仕掛けて撃墜し、生還した陸軍第244飛行戦隊の小林照彦戦隊長の逸話を収録している。

 

小林氏は戦後、民間人となったが、朝鮮戦争さなかの昭和27年3月、日本の国土防衛を在日米軍に依存している状況を憂い、米極東空軍司令官宛てに「日本人空軍部隊創設請願書」なるものを提出した。そこにはこう書かれている。



「我々は現在の非常事態に直面して、我が国の国防を貴軍(米軍)にのみ依存して、安閑たり得ないのであります。(中略)斯くて我々は、自ら進んで、貴空軍と協同して、これが防衛の一翼を担わんものと熱望する次第であります」

 

これはまさに、航空自衛隊の創設主旨とも言える。

 

旧軍出身者のなかには、小林氏と同じ思いをもつ元軍人が多数いた。実は、小林氏も含め、本書で“撃墜王”として紹介した元戦闘機パイロットの多くが、戦後に航空自衛隊に入隊している。

 

海軍の精鋭部隊、第343航空隊でスーパーエースと呼ばれた本田稔氏もその一人だ。日米開戦緒戦から終戦まで零戦や紫電改の操縦桿を握り、米軍のF6FやP51、B29などと死闘を繰り広げ、自ら編み出した一撃必中の空戦術により、生涯撃墜数は100機以上とも言われる天才パイロットである。

 

その本田氏は、戦後に空自に入隊し、ジェット戦闘機F86Fのパイロットとして再び日本の空の守りに就いたが、抜群の操縦技能を見込まれ、若いパイロットの養成と教育を担当し、数多くの戦闘機パイロットを育て上げた。退官後も三菱重工業で22年間もテストパイロットを務めている。航空自衛隊のパイロットと機体は、帝国海軍きってのエースパイロットによって育てられたのである。本田氏は自らの教育哲学をこう語る。


「とにかく自分の技は自分でつくらんといかん。その技では絶対に負けないということです。当時の日本のパイロットや整備員は皆優秀でした。私自身、優秀な整備員のおかげで最後まで戦い続けることができたのです。しかし日本は、敵であるアメリカの研究が足りず、そして自らの研究も足りませんでした。空中戦の勝敗の鍵は、相手と自らの研究にあるのです」

 

その考え方は、多くの自衛隊のパイロットたちにいまも受け継がれている。本田氏は92歳になるいまもご健在だ。

 

彼らの根底にあったのは、「日本人の手で日本の国土の防衛を」という強い思いである。それにもかかわらず、旧軍と自衛隊は無関係だと強弁するのは、彼らの祖国を守ろうとする思いやこれまでの尽力を侮辱するようで、筆者には許しがたい行為に思える。


この国は憲法第9条が守ってきたのではなく、目先の党利党略しか考えない無益な神学論争を続けて来た政治家が守ってきたわけでもない。こうした現場の力がこの国を守ってきたのだと思う。この国は現場力の国で無益な論争を繰り返し、いざとなると腰が砕けてしまう政治家が国を支えてきたわけではない。国防にしても災害にしても治安にしても常に現場が四苦八苦しながら創意工夫で支えて来た。旧軍と自衛隊は組織は違っても現場力は引き継がれた伝統だろう。日本を支える現場力に敬意を表したい。


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