最近、安保法制の議論を聞いているといつも不思議に思うのだが、憲法第9条に規定された交戦権の法規と戦力の不保持は日本だけではなく人類永遠のテーマであり理想である。誰も好き好んで戦いたくはないというのはある意味真実だろう。『わが国は他国と戦争はしない。その為の戦力も保持しない』と言うのは極めて崇高な国是でありその実現に向けて努力すべき理想だろう。これを世界に発信すれば、『誠に結構、ぜひ努力して実現していただきたい。』と言う意見も多いことだろう。



しかし、である。そうは言っても中には、『おう、上等じゃねえか。それがどうした』という国があったとする。そのときに必要になるのが安全保障政策で、平和主義は永遠の理想論、安全保障政策は現実論で本来同じ土俵で議論すべき問題ではない。



国家間でも個人間でも利益と利益、権利と権利が対立した場合は話し合いで解決などと言うことにはならない。それは歴史が証明している。国家と国家では戦争になるが、法人でも個人でも力と力の勝負になる。会社で言えば、販売合戦、個人でも入学試験や入社試験では知力の勝負となって勝者と敗者が生まれる。命のやり取りをしないだけでその後の人生に大きな影響を与えるなど結果は重大だ。



犯罪を例にとっても警備会社に警備を依頼する、あるいはネットであればウィルスソフトを導入するなど不正な侵害に対する対策は採っているのが現実である。国家と国家の関係も同様ではないか。個人でも国家でもわからずやと言うのはどこにもいる。そういう者に対して法を説いても意味がない。戦争放棄、戦力不保持という理想にそぐわない現実が人間の歴史の中に厳然と存在するのもまた事実である。



現在の与党が提出している安保法制が正しいものでそれなりの効果があるのかそれはそれとして、戦争をする国になる、徴兵制につながるなどと言う感情的な議論ではなくいざと言うときにこの国をどう守っていくのか具体的な議論こそ必要だろう。米国に追従して戦争になるとか言うが、米国にしてもそうそうむやみに戦争するわけでもないし、米国も今の自衛隊に外征軍としての能力が全くないことは承知している。また、現代のハイテク満載の兵器はそれなりの時間をかけて訓練しないと簡単に扱えるものではないだろう。国民皆兵のゲリラ戦のための徴兵と言う意見もあるが、ゲリラ戦やレジスタンスなど国を守るという高度な意思がないとやり抜けるものではない。



国家にしても個人にしても意見や利害が決定的に対立した際の解決方法は力によらざるを得ない。宗教団体でさえ、一向一揆や島原の乱のように武力による解決を図っている。戦後70年平和が続いたのは憲法9条のおかげではなく米国の傘があり、また自衛隊が実力をつけてきて、力のバランスが取れていたからだ。その傘が米国の国力が衰え、小さくなってきた今、この国の安全補償をどうするのかは理想論ではなく現実をわきまえて具体的に議論すべきだろう。その上で出来上がった安全保障政策を適正に運用するのは政治の使命であり責任だろう。平和、平和と念仏のように唱えていても平和は守れない。私的な団体がそういうのは勝手だが、政治が現実論と混同してそれを言うのは責任放棄の無責任としか言いようがない。



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