太平洋戦争の戦局が悪化した1943(昭和18)年、軍用機生産の中心地となっていた名古屋市に国が設立した航空機に関する研究所の概要が、複数の資料や取材で分かった。米戦略爆撃機B29の迎撃機や、物資不足を補うための木製機などの研究を行っていた。
この研究所は「財団法人名古屋航空研究所」。存在は一部で知られていたが、連合国軍総司令部(GHQ)による航空禁止令を受けて保管資料は処分・散逸したとみられ、実態は戦後ほとんど分からなくなっていた。
戦時中に科学技術政策を所管した政府機関「技術院」の初代総裁を務めた井上匡四郎が残した技術院の会議記録は、名航研の43年度の研究として16項目を列挙。最初に「高高度飛行用与圧胴体の構造」と記載されていた。
別の技術院資料には「(名航研は)昭和19年度においては、高高度機機体艤装(ぎそう)に関する研究を重点的に採り上げんとす」とあり、「この方面の研究は、現下最も要望されつつある問題」との記述もあった。
米軍は44年6月、空気の薄い1万メートルの高高度でも高出力を維持できるエンジンや与圧室を装備したB29で日本本土を初めて空襲。同11月以降、空襲を本格化させた。
名航研設立の43年夏までに、日本は開発中のB29についてかなりの情報を入手していたにもかかわらず、自国の技術開発は遅れ、対抗し得る迎撃戦闘機は開発できていなかった。
「日本軍用機事典」などの著書がある航空史家の野原茂氏は「B29迎撃には、与圧室やそのための機体構造が求められた。日本にはこれらを備えた戦闘機はなく、重点的に研究する必要があった」と指摘する。
一方、研究員だった篠原卯吉名古屋帝国大学教授(後の名古屋大学長)は、名航研が戦後改組された「名古屋産業科学研究所」(同市)の資料に「『木製機の迅速接着加工』などの研究をさせられた」と書き残していた。不足していたジュラルミンに代わる材料による機体製造を研究していたとみられる。
B29に関する情報は比較的早い時期にある程度具体的な情報を入手していて対抗手段を考えようとしていたが、結局技術がついていかなかったようだ。当時のエンジニアの着想は日本も英米もさほど変わりはなかったと言うが、それを具体化する技術に大きな差があったという。
何とかしようと思えば思うほど深みにはまって起死回生の一発狙いに沈んだのが当時の日本の航空技術だろう。キ87、キ94、海軍の烈風と烈風改、新型戦闘機はすべて間に合わなかった。
大体、誉と言い、ハ43と言い、2000馬力級エンジン自体がほとんど試作の域を出ておらず、安定した大馬力エンジンは火星と金星など1500~1800馬力級のエンジンだった。形勢が悪くなると一発逆転を狙って高性能機を開発しようとして、それがうまく行かず、時間と労力を浪費して時間切れになるのだが、それよりも今あるものを使ってそれなりのものを作るという発想がなかったことが残念である。
要するに1万メートルを時速600キロで飛べる戦闘機を作ればそれなりに使えたのだから金星に低圧タービンを組み合わせるとか、要は高性能を達成するのではなく性能を落とさない工夫と言う発想もあったのではないだろうか。
5式戦は低圧タービンを装備して高空でそこそこの性能を維持していたというし、キ96という試作機はハー112を2基装備した双発戦闘機で陸軍の方針が曖昧だったことから正式化されなかったが、時速600キロを記録し、垂直上昇もできる高性能機だったという。
海軍は零戦一点張りだったが、これも32型のように翼を切り詰めて金星を装備し、低圧タービンを装備したらどうだっただろうか。雷電にはタービンを取り付けたが、さほどの効果はなかったという。
紫電21型や4式戦はどうだっただろう。エンジンが誉だから安定した性能を求めるのは無理だったかもしれない。取り敢えずあるものを工夫して間に合わせ、その間に次を用意する。そうした発想も必要だったのかもしれない。
しかし、技術も工業力も相手が上だと結局はどんどん離されるばかりでそれならと言うことになったのかもしれない。結局、技術も生産力も上の国にやたらとけんかを売ったりしてはいけないということだろう。
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