豊臣秀次は秀吉の甥で秀吉の嫡男鶴松が死去したことから秀吉から政権を委譲され関白となった。その後、秀吉の側室の淀さんが秀頼を産んだことから秀吉と秀次の関係は徐々に悪化し、最後は謀反の嫌疑をかけられ、高野山に追放された後、切腹を命じられて、正室、側室、一族郎党全て三条河原で秀次の御首の前で斬首され、河原に埋められたと言う。


今はその場所に瑞泉寺と言う寺が建てられ菩提を弔っている。関白まで上り詰めた人の割には小さな寺で哀れを誘う。京都に行くと必ず立ち寄るのはなぜかこの秀次と言う人物を気の毒に思うからだ。


秀吉に謀反を企てたと言うが、出頭を命じられた時に家臣が「その気があるなら一万の軍勢を預けてくれれば存分に戦って見せる」と言うと笑いながら、「それには及ばない」と言って出頭したと言うからその気はなかったのだろう。


また、領民を殺害したり神仏を冒涜して殺生関白と言われるほど暴虐を尽くしたと言うが、領国の近江では名君と言われていたようだし、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも主君として横暴なところもあったが、秀吉よりははるかにましだったと言っているし、これも当たらないようだ。


要するに淀さん辺りに焚き付けられた秀吉が何とか秀頼を後継者に据えようと画策したのだろう。秀吉は権力を手にすると、「これが同じ人物か」と思うほどバカになった。後継者の秀頼もプライドばかり高くてこれと言った知恵もなく秀頼を自分の生き甲斐にして潰してしまい、結局、豊臣は徳川家康につけこまれて滅亡する。


大坂の陣ももう少し強かに戦っていたら結果は違うものになっていたかも知れない。大坂夏の陣でも秀頼が陣頭に立って五万の軍勢を鼓舞してうまく使えば家康の首くらいは取れたかも知れない。


しかし、秀忠が征夷大将軍になっていたので家康の首を取っても天下の行方は変わらなかっただろうが、・・・。結局、豊臣の行く末を最も気にかけていた秀吉自身が豊臣を亡ぼしたようなものだが、情に溺れて目先が曇っていく秀吉を見ながらほくそ笑んでいたのは家康だろう。


育てられ方に問題があったとは言うものの総大将として部下の前に姿も見せなかった秀頼はともかく、近江、尾張、伊勢を領有し、それなり治めていた秀次とその一族の末路は哀れを誘う。


京都と言うところは歴史と文化よりもこうした権力を巡る暗闘とその犠牲になった人達の哀しみの漂う街のように思える。


日本ブログ村へ(↓)