フィリピン・レイテ沖海戦で昭和19年10月25日、関行男大尉=当時(23)、戦死後に中佐=率いる旧日本海軍の「神風特攻敷島隊」が初めての攻撃を実行してから、70年となる。

自身も海軍特攻隊員で、出撃前に終戦を迎えた「敷島隊5軍神 愛媛特攻戦没者奉賛会」会長の寺田幸男さん(88)は、英霊への感謝の気持ちを奪った当時のメディアとそれに醸成された世論は戦後の日本の姿をゆがめたという。「成人式が済んでいないような若者がにっこり笑って死んどるじゃろ。そんなのは日本しかない。日本人は誇りに思わにゃあいかん。それを教えないから、今の子供はのうのうとしている」

特攻作戦はその後も、陸、海軍が沖縄戦などで大規模に展開した。

沖縄に向けての出撃前に終戦を迎えた元陸軍特攻隊員で第194振武(しんぶ)隊長だった堀山久生さん(91)=陸軍士官学校57期=は「国が負けかかっているときに、俺たちがやらんで誰がやるか。やらなきゃいかんのです。そうしなければ国が滅亡する」と振り返る。

沖縄への出撃後に機体の故障などで帰投した元陸軍特攻隊員で、知覧特攻平和会館(鹿児島県)の初代館長、板津忠正さん(89)も「自分が死ななければ日本は救われないと信じている者もたくさんいた。私も『国のため、肉親のために死ねる』という満足感があった」と語る。

戦局悪化の中、軍上層部には脳漿(のうしょう)を絞る者も、的確な判断を下す者もいなかったのだろうか。

人間魚雷・回天を考案した黒木博司大尉=当時(22)、殉職後に少佐=は戦友に「中央の怠慢は国賊というの外なし。戦局今日に至りし所以、全く物にあらず人にあり」と軍上層部への怒りに似た思いを打ち明けている。

戦後70年近くたった日本の姿にいらだちを感じる関係者も多い。鹿児島・知覧飛行場から沖縄に出撃して散華した元陸軍特攻隊長の婚約者だった女性(95)=岐阜県=は最近、「あの人たちは何のために死んだのかしら。あの人たちの姿と思いを日本人は忘れてしまったのかしら。今の日本を見ると、かわいそうで仕方がない」と涙を流す。

鹿児島・万世飛行場から沖縄に出撃して散華した陸軍特攻隊員の実兄は「隊員の多くは、子供たちに古事記を読ませるように言い残すなど教育の大切さを説いた。戦後、わが国は経済面で世界の牽引(けんいん)国に成長したが、何か、大切なものを忘れてしまった」という。

戦後70年を経た日本人がこれから、どのような日本国を構築するのか-。英霊は現代の日本人にそう問いかけている気がする。
 
 
特攻隊員の遺書に、「真剣だが悲惨な時代、ばかばかしいが平和な時代、どちらが本当の姿だろうか。おそらくは平和な時代が本当の姿だろう」と言う一節があった。彼らも様々に思い悩んだのだろう。
 
 
日本人は超他力本願の民族で結果が悪いとその時の権力者に責任を転嫁して知らん顔をする。しかし、東日本大震災の人々の犠牲的な行動を見ているとこの国も捨てたものじゃないなと思ったりする。複雑な国民性だ。
 
 
70年前も今も結果に対してはその時代を生きた者全員がその立場に応じて責任を負うべきだと思う。特攻隊員は何のために命を擲ったのか、おそらく未来の日本のためだろう。そうして自分を犠牲にした人たちがいたことは忘れてはいない。僕らはそうした過酷な時代には生きなかったが、そうしたDNAは日本人自体が持っているのかもしれない。
 
 
特攻と9.11自爆テロを同一視する向きもあるが、とんでもない話だ。特攻隊員が向かったのは正規の戦争状態の中、当時世界最強の米海軍機動部隊で何の罪もない無抵抗の民間人ではない。
 
 
当時米英を相手に戦争をしたことは間違っていた。それは当時の為政者の責任だろう。しかし、絶望的な戦況の中、自分を犠牲にしても敵に向かって行った特攻隊員を誰が責めることができるだろう。僕らはそうした時代に生きることはなかったが、もしも同じ時代に生きていたら多分同じことをしたと思う。何故って、それは僕が日本人だからだろうと思う。そういう時代があったこと、その時代の中で命を捨ててもこの国の未来を守ろうとした人たちがいたことを決して忘れたりはしない。
 
 
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