太平洋戦争で使われたゼロ戦の設計などで知られる航空技術者、堀越二郎氏(1903~82)の出身地である群馬県藤岡市の親戚宅から、同氏が手掛けた「烈風改(れっぷうかい)(A7M3)」の詳細な設計図17枚が見つかった。同機はゼロ戦の後継機とされたが、試作機すら造られず終戦を迎えた「幻の戦闘機」。設計図の寄贈を受けた同市は、堀越氏を主人公のモデルにしたスタジオジブリの映画「風立ちぬ」の公開に合わせて今夏、企画展で展示する。
◇設計者の映画、今夏公開
同市によると、設計図はいずれもA1判(横約84センチ、縦約60センチ)。製図日は1944年6月から45年7月となっており、機体の先端部分やエンジン付近のタンクなど4種類の部品が描かれていた。情報漏れを防ぐためか、機体の名称部分は破り取られていた。
同市によると、設計図はいずれもA1判(横約84センチ、縦約60センチ)。製図日は1944年6月から45年7月となっており、機体の先端部分やエンジン付近のタンクなど4種類の部品が描かれていた。情報漏れを防ぐためか、機体の名称部分は破り取られていた。
設計図は05年2月、市内に住む堀越氏の親族が「蔵で見つけた」として同市に寄贈した資料約500点の中にあった。今年2月、専門家に鑑定を依頼し、開発の時期や部品の形状から烈風改と判明した。同機については、全体像の図面などが確認されるにとどまっていた。
烈風改は、三菱重工業が開発を進め、社員だった堀越氏が設計主任を務めた。地上1万メートル以上で米爆撃機B29との対戦を想定していた。44年12月~45年1月の空襲で名古屋市にあった同社工場は壊滅し、数百人の従業員が死亡。同社によると、堀越氏は疎開先の長野県松本市で開発を目指したという。堀越氏は同社を定年退職後、防衛大教授などに就任した。資料を保管する藤岡市文化財保護課の軽部達也課長補佐は「終戦の間際まで、より高度な技術を追い求めた様子が伝わる」と話す。
20世紀の航空開発資料を収集する日本航空協会航空遺産継承基金(事務局・東京)の長島宏行氏によると、GHQ(連合国軍総司令部)は日本の航空機開発を禁じ、機体や資料を没収した。「これだけの設計図が一般の家から見つかるのは、非常に珍しい。設計者の思い入れが強く、終戦後も手放せなかったのでは」としている。
太平洋戦争ではあまりに悲惨な負け方をしたので間に合わなかった新兵器があると、「あれがもっと早く出ていれば」という思いが強くなる。例えば陸軍の四式戦車にしても、戦況を変えたかもしれない超戦車のように言われるが、レベルとしてはM4と同等かやや劣ると言う程度だろう。仮に四式が昭和18年ころに戦線に投入されていたとしてもある局面ではM4を痛打したかもしれないが、米国はそれ以上の戦車を雲霞のように投入して四式を圧倒しただろう。
烈風にしても幻の高性能戦闘機と言うが、全幅14mというあの巨大な翼を見ると、「こりゃだめかも知れない」と思わせる。仮に烈風が昭和19年ころに戦線に投入されたとしても、あの時期600km強程度の最高速ではP51やP47に圧倒されてしまっただろう。折りたたみ部分を取り除いて翼を小型化して最高速を上げた方が良かったのかもしれない。それよりも紫電改にハ43を搭載した紫電改5の方が有効だったかもしれない。
何よりも残念に思うのは零戦52型を出した時にエンジンを金星に換装しておけば良かったと思うが、どんなものだろう。もちろん、そうしたとしても戦況を変えるなどと言うのは夢のまた夢に違いないが、もうすれば零戦でももう少し戦えたかもしれない。
結局、だろう、だろうの話になってしまうが、大西洋戦争の後期には生産力、技術力ともに日本は米国に大きく後れを取ってしまったのだから勝てるはずもなかった。それは政府や軍の首脳部の責任であり前線で戦っていた兵士や銃後で何とか戦況を変えられる新兵器を生み出そうと努力を続けた技術者の努力は称賛されるべきだろう。ところで日本の戦闘機は米国でテストをするとどの機種も最高速が10%以上向上したと言うから、これも電装品や燃料のレベルの差と言うことなのだろう。しかし、烈風の姿はなかなか流麗で日本人技術者の機体設計のレベルの高さを感じさせる。
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