扶桑型戦艦は日本海軍最初の超弩級戦艦として1911年に呉海軍工廠で建造が開始され、1914年3月に進水、1915年11月に竣工した。多くの艦を建造できない日本海軍の個艦優越主義により、扶桑型は連装砲塔6基12門の主砲を搭載する当時の最重武装艦となった。出力40,000馬力で速力も当時の戦艦としては比較的高速の22.5ノットで、完成当初は世界最大最武装最速の戦艦だった。
しかし扶桑型は英国ライオン級巡洋戦艦や、英国戦艦「エジンコート」、ドイツのケーニヒ級戦艦のように砲塔がボイラー室を挟むような配置で、後年の近代化改装時にボイラーの増設が困難となったようだ。また全長の5割に達する長大な被弾危険箇所(弾薬庫等)、6割に達する砲塔配置(金剛型は33%)という防御上の弱点、第3・第4砲塔の不適切な主砲塔配置により一斉射撃時に爆風が艦全体を覆う等、数々の問題を抱えていたようだ。
準同型艦の伊勢型戦艦ではこの点は改善されているものの、当時の日本の技術力としては無理が多かった部分もあり、防御能力では当時の列強の戦艦類と比べると見劣りするという。実際に1912年5月の報告書では列強の戦艦と比較し、本型の砲塔装甲の薄さを指摘、『此の如きは正に寒心に堪えずと曰はざる可からず』と評しているようだ。また速力もクイーン・エリザベス級戦艦との比較で十分とは言えず、速力増大が必要だとしている。
1930年4月に呉海軍工廠で近代化改装に入り、1933年5月に完了たが、問題となっていた主砲発射による爆風の対策として、艦橋部分の新設と改装、装甲防御の増設と改善、更に7.6センチ砲等対空砲の搭載と、主砲仰角の引き上げという具合に攻防両面の能力向上が図られたようだ。増設した艦橋の高さは、およそ水面から50m以上になり、姉妹艦「山城」と共に日本戦艦中最高となったようだ。第一次改装後に機関出力がほぼ倍増され、速力も24.5ノットに向上したため、「伊勢」「日向」「長門」「陸奥」と戦隊を組み、高速艦隊機動が可能となっている。この当時、24ノットで艦隊機動を行える戦艦部隊はイタリア海軍に存在するだけだったという。
第二次近代化改装は、第一次から僅か一年後の1934年9月から行われ、1935年2月に終了している。この時にバルジを増設、艦尾を約5メートル程延長し、全長も212.75mとなった。艦橋上の測距儀も8mのものを搭載し、防空施設の増設や水上偵察機の搭載を行った。後年のフィリピン決戦前には電探も積まれている。しかし機関の改善という点では5,000馬力出力増加したものの、太平洋戦争時には速力が24.7ノットと日本戦艦中最も遅くなった。ちなみに、イタリアのコンテ・ディ・カブール級戦艦やカイオ・ドゥイリオ級戦艦は煙突と煙突に挟まれた砲塔を1基撤去して、それぞれ21.5ノット→28ノット、21.5→27ノットへ増速している。日本海軍の場合、大和型戦艦や翔鶴型航空母艦の建造、他艦の改装による予算と設備の不足から、1943年に艦齢30年を迎える老朽化した扶桑型戦艦に大改装を施す余裕がなかったという事情があるようだ。
太平洋戦争緒戦では、真珠湾攻撃に向かった南雲機動部隊の後詰め・曳航艦として山本五十六連合艦隊司令長官が座乗する戦艦「長門」や「陸奥」と共に出撃、1941年のミッドウェー作戦で日本を出撃]したが、米軍と交戦することはなく日本へ戻っている。それ以降は出撃もなく、「山城」、「伊勢」、「日向」と共に二線級の扱いだったが、ミッドウェー海戦で日本軍は主力空母4隻を喪失、空母不足に陥った日本軍は扶桑型や準同型艦である伊勢型戦艦「伊勢」「日向」を航空母艦へ改造することを検討したが実現せず、伊勢型のみを航空戦艦に改造した。
1943年7月には、戦艦「長門」と共に航空隊の演習目標艦となったが、1944年6月初旬の渾作戦に「扶桑」は第五戦隊、第十駆逐隊、第十九駆逐隊、第二十七駆逐隊と共に出撃、ビアク島に上陸した米軍を撃退すべく同方面に進出したが、米軍機動部隊出現の報告(誤認)を受けて連合艦隊司令長官の命令により退避した。1944年10月、「扶桑」は第二艦隊第三部隊として、旗艦「山城」と共にブルネイ泊地から出撃、スリガオ海峡を通り抜けてレイテ湾を目指したが、米軍第7艦隊第77任務部隊第2群の攻撃を受け、魚雷4本が命中した「扶桑」は落伍し、大爆発を起こした。「扶桑」の船体は直ぐに沈没せずそのまま炎上し続けたが、艦長の阪匡身少将を含む全員が戦死したので、その最期を詳しく知る者はいないという。
この扶桑型は老朽・低速と言うことで太平洋戦争では何ら活躍することもなくレイテ突入で悲劇的な最期を遂げたが、第2次改装で思い切って第3・4砲塔と副砲を撤去して機関を増設し、速力を30ノット程度まで上げて金剛型と同様の高速戦艦としておけば相当程度活躍したことだろう。低速と言っても5ノット、時速にしてわずか9キロ程度の差だったのだから、扶桑・伊勢・長門の各型を高速戦艦としておけば相当な戦力になり得ただろう。
予算や設備不足、戦術思想などの問題があったようだが、高速化しておけば、艦橋の後ろから第5砲塔まで甲板がかなり広く空いており、ここに高角砲を増設して防空戦艦として空母の護衛にも使えたのではないだろうか。海軍が力を入れて建造した1万トン級重巡などは意外に脆く、レイテ沖海戦ではほとんど全滅しているなどさほどの活躍はしていないが、戦艦はなかなかタフで使い勝手も良かったように思う。中央の砲塔を撤去しておけば防御上の問題も減少しただろうから一石二鳥だっただろう。しかし、これも結果を見ての後知恵なのでやむを得ないだろうが、扶桑型戦艦を見ると、「高速化しておけば、・・・。」と残念で仕方がない。
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