雷電は、海軍が開発し、戦争後半に実戦投入した局地戦闘機/乙戦で、局地戦闘機とは陸上基地で運用する迎撃機のことである。海軍は、中国戦線で中国爆撃機によって少なからず被害を受けたことから昭和14年に三菱に「十四試局地戦闘機」の試作を命じた。海軍側の要求は、最高速度が、高度6,000mで325ノット以上で340ノットを目指す。上昇力は、高度6,000mまで5分30秒以内、武装20mm2門・7.7mm2門、操縦席後方に防弾版を装備というものだったようだ。三菱は堀越二郎技師を設計主務者とした設計陣を組み、大型爆撃機迎撃のために、速度と上昇力を備え、一撃で爆撃機を撃墜し得る火力を備えた戦闘機として本機の開発を行うこととした。
その速度と上昇力のためには大馬力エンジンが必須だが、当時の日本には戦闘機用小型軽量高出力エンジンがなかった。そこで大型爆撃機用に開発された直径の大きい「火星」を選定、延長軸と強制冷却ファンを追加した火星一三型を開発し、機体を紡錘形として抵抗を減らす工夫がなされたが、これがこの機体の大きな問題となった。
こうしていろいろと設計上の努力をしたが、十四試局戦の最高速度は要求性能を大きく割り込むことが予想された。そこで、昭和16年7月に水メタノール噴射による出力向上を図った火星二三甲型に換装した十四試局地戦闘機改が計画され、本格的に開発が開始された。昭和17年10月に初飛行した十四試局戦改は要求性能をほぼ達成したが、最大出力運転時に激しい振動が発生してこの対応に追われることとなった。防振は技術者を鍛える最もいい試練と言うが、当時の日本にはこの振動の原因が特定できず、手を焼かされたようだ。結局、振動の原因は真っ先に疑われた延長軸ではなく減速機構の振動とプロペラ強度不足による振動の共振であることが明らかになり、プロペラ減速比の変更とプロペラブレードの剛性向上によってほぼ解決されている。
この間、着陸時の衝撃による尾輪の変形が原因の墜落事故で操縦士が殉職する墜落事故が発生したこともあり、この振動問題が解決されるまでに1年以上を要し、雷電の実用化を大幅に遅らせることになるとともに零戦の後継機開発にも重大な影響を与えた。
試作命令から3年半近く経過した昭和18年後半に実用機としての雷電一一型の生産が開始されたが、部隊配備開始後、高高度で定格出力が得られないというトラブルが発生、高高度性能を向上させた火星二三丙型や火星二六型への換装が行われている。また、その後も火星二三甲を装備する機体や新造機に対し、昭和19年後半より高高度性能を上げるための幅広ブレードのプロペラに変更するという対策が行われている。
また、機体を紡錘形としたためにエンジンが機首よりかなり後方に装着されていることから、操縦席部分が機首より太くなり、機首上げ時の前下方視界が極めて悪化するという弊害が生じた。そのため速力の低下を承知で風防上部の嵩上げが行われ、最終的には風防前部付近の胴体側面の削り落としまで行われている。戦後の調査で米軍ではこの程度の視界不良は当然で全く問題にされなかったようだが、視界の良好な零戦に乗りなれた繊細な日本人パイロットには大問題だったようだ。
主翼は、1940年代当時抵抗軽減のため高速機に有利として着目されはじめていた層流翼の翼型を採用、この主翼は零戦で問題となった中・高速域の横転性能が大幅に改善されたという。当時の海軍機の中では横転性能は最高だったという。しかし、雷電以降に開発された日本海軍機にはほとんど層流翼が採用されたが、当時の加工精度に問題があって意図したほどの抵抗軽減効果は得られなかったようだ。また、本機の主翼は、限界領域での飛行特性に不安定な面があったようで、低速旋回時の失速による墜落事故も複数記録されているようで、そのために雷電を嫌う搭乗員も少なからずいたようだ。
一一型までの武装は零戦と同じ翼内に20mm機銃2挺、胴体に7.7mm機銃2挺だったが、二一型以降は九九式20mm機銃4挺を翼内に装備した。しかし、同じ20mm機銃とは言っても、短銃身の一号銃と長銃身の二号銃が混載されたことから構造の相違や弾薬の補給で支障を来たし、弾道も異なるなど実用に大いに問題があったようだ。この辺りは日本の生産力の貧弱さからくる問題で設計自体の問題ではないが、効果的な戦力と言う点では大いに問題があったようだ。
当初、最新の航空力学に基づいた機体に大馬力エンジンを装備し、更に大火力を併せ持つ雷電は海軍の大きな期待を集め、零戦の後継機候補として大増産計画が立てられたが、種々の問題から実用化が遅れ、さらには次期甲戦の開発にも影響を及ぼすこととなった。また、同時期に実戦投入された紫電改と比較され、両者の試作機を比較テストした結果、紫電改は対戦闘機戦闘も可能だが、雷電は零戦と組み合わせなければ性能を活かすのは難しいとの結論に達し、比較試験を実施した横須賀航空隊から雷電の生産を中止して紫電改の生産に集中すべきだという報告書が出される始末だった。
しかし、紫電改も誉の不調に悩まされていたことや雷電の上昇力は米軍のB29に対抗するために有効と考えられたことなどから、少数の生産が継続され、拠点防衛部隊を中心に配備された。最初の雷電部隊は、バリクパパンにある油田防空部隊である第三八一海軍航空隊に配備され、有り余る高品質燃料を使って訓練を重ね、短期間ではあるが米軍や英軍のB24、P38、P47などに空戦を挑み、それなりに戦果を挙げたという。そのほか、本土防空専任部隊として編成された第三〇二航空隊(厚木)、第三三二航空隊(岩国、鳴尾)、第三五二航空隊(大村)、台湾の台南航空隊(台南)に配備され、その中でも神奈川県厚木飛行場に配備された第三〇二航空隊の雷電隊は、東京京浜地区に侵入するB29迎撃で最も戦果を挙げたのは有名である。
雷電と言う戦闘機は日本の技術力の貧弱さを象徴するような戦闘機だった。適当な高出力・小型軽量のエンジンが入手できればこの機体の運命は劇的に変わっていたかもしれない。そして振動問題なども手早く片づけて高速・重武装の重戦闘機として零戦の穴を埋め、B29迎撃の切り札として活躍していたかもしれない。
また、日本人戦闘機乗りの軽快性を重視する思考もこの戦闘機を脇に追いやった原因の一つだろう。米国の調査ではこの機体の離着陸性能や視界などは全く問題とされず、高速性能と上昇力が高く評価されたという。それは戦闘機に対する思想の違いなのかもしれないが、この機体に格闘戦などをさせずに、一撃離脱に徹していれば相応の対戦闘機戦闘も可能だったかもしれない。また、離着陸性能なども滑走路や付随する施設を手っ取り早く作れればさほどの問題にはならなかったかもしれない。
雷電と言う戦闘機は日本機離れした力強いフォルムを持った戦闘機で順当に開発されていれば米軍の戦略爆撃機の前に立ちはだかる防波堤となり得たのかもしれない。しかし、当時の日本の技術力では手に余る機体だったようで、この機体の正式名称だった「雷電」と言う名称のようには雷鳴は轟かなかったようだ。
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