零式水上偵察機は愛知航空機が開発し、昭和15年に正式採用された日本海軍の水上偵察機で、昭和12年に、九四式水上偵察機の後継機として川西と愛知が競争試作した。しかし、愛知の機体は納期に間に合わず、失格とされた。
 
失格となった後も、愛知は研究資料とするために製作を続行し、昭和14年1月に1号機が完成した。機体は金属製で、低翼単葉の双浮舟式の水上機で、主翼は折りたたむことができたようだ。ところが、昭和14年6月に川西の機体が事故で失われことから、海軍は愛知製の機体の試験を行ったところ、なかなか優秀ということで採用内定となったという代打のような機体だった。
 
海軍は、本機を空母、戦艦、巡洋艦、潜水艦に搭載し、長距離偵察に使用するつもりだったようだが、艦船や基地へ配備された本機は戦争序盤には、艦隊や基地の目として活躍したようだ。しかし、中盤から末期には速度不足・加速力不足が原因で、米艦隊の防空網をかいくぐって敵艦隊や基地の情報を入手することは困難になってきた。
 
しかし、海軍では索敵・哨戒任務機のための高性能艦上偵察機を有していなかったので、大戦後半も本機は船団護衛や対潜哨戒など地味ではあるがなかなかの活躍をしたようだ。また、ソロモンを巡る戦闘では20mm機銃を下方に向けて装備し、跳梁する米軍の魚雷艇狩りにもずい分と使われ、成果を上げていたようだ。最後は特攻にも使用され、最後の最後まで、日本本土から外地の離島の基地まで広い範囲でよく働いたようだ。米軍戦闘機のガンカメラに捉えられた鈍重な機体で敵弾を避けようと精一杯回避運動を行う本機の姿は胸に迫るものがある。
 
総生産数は1,423機だそうだが、終戦時には約200機が残存していたという。この機体が最後まで馬車馬のように活躍できたのも、エンジンが金星で扱い易く稼働率も良かったせいだろう。
 
 
水上機でもう一機種、地味ながらよく働いた機体がある。それは零式観測機で、海軍が短距離偵察と弾着観測を主任務とし、高い空戦能力を持たせ、敵の同種機の妨害を排除して任務を遂行できる機体として三菱に開発させたものだった。
 
三菱が試作した機体は、空戦能力と上昇力を重視した複葉機だったが、胴体は全金属製のセミ・モノコック構造で、なかなか近代的な機体だったようだ。昭和11年6月に完成した試作1号機は、飛行中、不意に自転する傾向があり、この矯正のために、主翼の形状を大幅に改め、垂直尾翼も20種類以上の形状を比較検討するなどずい分と苦労があったようだ。
 
エンジンは中島のを搭載する予定だったが、空力特性改修中に三菱製の新型エンジン「瑞星」が完成したため、これに換装したところ速度が大幅に増加したという。昭和15年末に、「零式水上観測機」として正式採用となったが、10試で15年採用だから空力特性の改善にはずい分と苦労があったようだ。
 
採用になった零式観測機は、複葉機ながら補助翼の一部を除き全金属製の近代的な機体で、無類の安定性と高い格闘性能を持っており、零戦を改造した二式水上戦闘機よりも軽快だったという。海戦の様相が変わって、戦艦の着弾観測や敵情偵察という本来の任務はなくなってしまったが、船団護衛、対潜哨戒、あるいはその卓越した空戦性能を生かしての離島の基地における防空など、様々な任務で幅広く活躍したという。
 
ソロモンを巡る戦闘では、F4Fなどと空戦を行い、F4Fを撃墜したこともあったようだが、複葉複座の水上観測機では善戦したとは言っても限度があったようだ。速度性能と武装で決定的に不利となった戦争末期に来襲したF6Fを撃墜したということもあったようだが、戦闘機相手では最初から相当に苦戦したことだろう。
 
中期以降は、船団護衛や対潜哨戒などに終戦まで使われ、一部は零式三座水偵と同様に特攻機として使用されたようだ。生産機数は約700機と言われているが、もう少し多かったという異説もあるようだ。零式三座水上偵察機にしても零式観測機にしても日の当たらない裏方の仕事を黙々とこなして戦線を必死に支えた建物で言えば土台のような機体だった
 
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