二式複座戦闘機は、Bf110に刺激された陸軍が爆撃機の護衛という遠距離戦闘機(遠戦)として開発したものだが、19426月、中国大陸の広東方面で爆撃隊の護衛として参戦、米陸軍義勇航空隊のP-40と対戦したが、さんざんの惨敗だったようだ。同様にハノイでもP-40Eと戦闘を行ったが、やはり惨敗、これで大型の双発戦闘機は単発戦闘機とまともに戦えないことを証明してしまった。
 
二式複戦はあらゆる戦域で戦闘に参加したが、最大速度はカタログ値で540kmほど、運動性は単発単座機である一式戦闘機「隼」や二式単戦「鍾馗」に著しく劣った。大型機迎撃に威力を発揮したものの、護衛の戦闘機がいるとこれに撃墜されることも多かった。二式複戦装備の部隊は、一式戦や二式単戦に機種変更する部隊もあったが、九九式双発軽爆撃機から機種変換した部隊では、軽爆撃機として対地対艦攻撃に使用され、評判は良かったようだ。
 
戦争末期になると二式複戦は本土防空部隊に配備されB-29迎撃任務に当たったが、それなりに戦果を挙げたようだ。特に北九州防空の任に当たった第12飛行師団隷下の第4戦隊は、西部軍管区司令部直轄の早期警戒システムと、高性能の無線機の積極的な活用、地上からの誘導などにより、多くのエース・パイロットを生み出し、終戦まで連日出撃し勇戦敢闘したという。
 
しかし、10,000mの高高度で高速進入するB-29の迎撃には性能不足で、有効な攻撃をかけることが出来なかった。少しでも性能を良くするために他の日本戦闘機同様、燃料・弾薬の量を減らし、後部座席をなくして軽量化した機体も使用されたが、効果は上がらなかった。また、米軍が夜間無差別爆撃を行うようになると、レーダーなどの電波兵器を持たない日本は、ドイツ空軍夜間戦闘機のように効率よく目標を捕捉して撃墜するということが出来ず、19454月に硫黄島から陸軍戦闘機が飛来するようになると昼間活動は封殺されてしまった。
 
海軍は、1941)3月に十三試陸戦を試作したが、これも遠距離戦闘機として使用するためで、陸軍と同様にドイツのBf110に刺激されたもののようだ。しかし、速度や航続力はほぼ要求を満たしたが、双発戦闘機では運動性に劣り、既に零戦が長距離援護戦闘機として活躍していたこともあって戦闘機としては不採用となった。
 
それでも本格的な陸上偵察機のなかった海軍は、本機を、強行偵察にも使用可能な偵察機に転用することにして改造し、二式陸上偵察機として制式採用された。制式採用後、3機がラバウルに進出し、米軍のガダルカナル進攻後、ラバウルからガダルカナルに航空偵察を行い、貴重な情報をもたらしたようだ。しかし、米軍の戦力が増強されるにつれ強行偵察では被害が続出するようになり、より高速の二式艦上偵察機(D4Y1-C)や陸軍から借用した百式司令部偵察機の方が重用されるようになった。
 
1943には第二五一航空隊が20mm斜銃を追加装備した夜間戦闘機として使用し、ラバウルに来襲した2機のB-17を撃墜、その後も戦果を挙げたことから、19438月に丙戦(夜間戦闘機)「月光」(J1N1-S)として制式採用、斜銃も制式兵器となった。
 
これで一時はラバウルへの夜間爆撃を押さえ込むことに成功したが、米軍は戦力比が大きく開くとともに効率の悪い夜間爆撃はあまり行わなくなったため、中部太平洋やフィリピンを巡る戦いでは月光は夜間迎撃より夜間偵察や夜間襲撃等に用いられることが多くなった。
 
本土防空戦では屠龍と同様にB-29迎撃に活躍したが、米軍の援護戦闘機に抑え込まれたことや速度や高々度性能の不足、迎撃機数が少ないことなどから十分な戦果を挙げることはできなかった。米軍が昼間の高々度爆撃から夜間の焼夷弾爆撃に切り替えると月光はかなりの戦果を挙げ、一晩で5機を撃墜した例もあるという。戦争末期には対航空機用レーダーも装備されていたようだが、取扱いの不慣れやレーダー自体の信頼性も低かったことなどから、実戦において戦果を挙げるまでには至らなかったようだ。
 
キ96は19428月に、キ-45改(二式複座戦闘機屠龍)の性能向上型であるキ-45改IIの開発を指示したことから試作が始まり、途中、陸軍から単座機として開発するよう指示があり、1943年9月に試作第1号機が完成した。この機体は、水滴風防を備え、ハ-112Ⅱを搭載し、高度6,000mで最高速度600kmを記録するなどなかなかの高性能だったようだが、双発戦闘機の運用に陸軍が確固たる方針を示せなかったことから正式採用はされなかった。
 
キ102乙は1944年3月に試作1号機が完成し、7月には量産が開始された。本機は基本的にはキ96と同一の機体を複座化したものだったが、エンジンナセルなどがスリムに洗練されたものになっていたという。武装は強力で、機首に57mm機関砲、20mm機関砲2門と12.7mm機関砲1門を装備し、爆弾は500kgまで搭載できるなど、性能は概ね良好だったが、配備時期が遅すぎ、これと言った活躍はしていない。
 
高高度戦闘機型キ102甲は1944年6月に試作機が完成したが、乙型とほぼ同一の機体で、主な相違点はエンジンに排気タービンが装着されていることと機首の57mm機関砲が37mm機関砲に換装されていたことだった。しかし、25機しか配備されず、排気タービンの作動不良もあって満足な活動はできなかったようだ。
 
最後は日本海軍が、対B-29用として開発した天雷だが、誉エンジンの出力不調とフラップとエンジン・ナセルとの相関形態から発生するナセル・ストールで最大速度は597kmほど、上昇力も高度6,000mまで8分と要求性能を下回り、1944秋に行われた海軍の試作機開発整理対象となり、試作機6機の製作で開発は中止された。
 
結局、日本の双発戦闘機は一部が大型爆撃機の迎撃に成果を上げた程度でこれといった戦果を上げずに終わってしまった。それはやはり軍の双発戦闘機に端から無理な格闘性能を求めたことなどによるのだろう。双発戦闘機は単発に比べれば大型化するのはやむを得ず、それに戦闘機としての格闘性能など以ての外の要求だったのだろう。
 
仮にこれらの機体を速度と上昇性能に絞って極力小型にした戦闘爆撃機を開発していれば双発の大馬力にものを言わせた高速戦闘爆撃・迎撃機として活躍する場があったかもしれない。海軍は対爆撃機迎撃機と艦船攻撃機として、陸軍は地上攻撃と対爆撃機迎撃機として使用できただろう。
 
これらをそうした役目に絞って開発装備していれば、高速と適度の運動性を備えた攻撃戦闘機として、中攻に雷撃や急降下爆撃をさせるような無理をしないでも済んだかもしれないし、陸軍も軽爆などの開発をしないですんでもう少し合理的な軍用機の装備が出来たかもしれない。
 
結局はBf110の誇大広告に踊らされて長距離を侵攻して単発単座戦闘機と格闘戦で勝てる双発戦闘機などと言う夢を見たことが、日本の双発複座戦闘機に息切れをさせる最も大きな原因だったのかもしれない。高速で敵の中を駆け抜けて大量の爆弾を叩きつける、上昇力で高空に駆け上がって大口径砲で爆撃機を粉砕する、双発戦闘機にはそんな戦法しかなかったように思える。ただ、海軍の場合は攻撃にはそれなりの航続距離が必要だろうから主な任務は大型機の迎撃になるのだろうか。使い方によってはそれなりに活躍の場はあったと思うが、いずれにしても用兵側が明確な目的を持てなかった双発戦闘機には初めから未来はなかったのかもしれない。
 
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