1938年、川崎重工業神戸造船所で起工された当時の日本海軍の最新鋭空母が瑞鶴だった。瑞鶴は当初は飛龍を拡大した基準排水量13,500トン程度の空母として計画されたが、防御力と航続力を強化し、その他の要求も盛り込んだところ、基準排水量で26,000トンほどの大型空母になってしまったようだ。搭載機は72機、その内訳は、零式艦戦18+2、九七艦攻27+5、九九艦爆27+5機で、総搭載数は84機だった。
 
飛行甲板の長さは242 メートル、格納庫は2段式で、煙突と艦橋を右舷に設置したアイランド型とされた。完成後の排水量は、公試排水量29,800トン、34ノットの高速力を発揮し、航続距離も18ノットで9,700浬という性能だった。機関は、主缶8基、主機タービン4機4軸で160,000馬力と大和型戦艦を凌ぎ、日本海軍軍艦中最大の出力だった。
 
本艦型は、飛行甲板そのものに対する防禦は考慮されなかったが、爆弾庫は水平爆撃の800キロ爆弾および20センチ砲弾の直撃に耐え、機関室は急降下爆撃の250キロ爆弾および12.7センチ砲弾に耐えるよう設計され、缶室は水雷防禦として450キロ級炸薬に対する防禦がなされていた。兵装は対空火砲12.7センチ連装高角砲8基、25mm3連装機銃12基を装備していたが、機銃は、その後、増設され、最終状態では70門を超えていたという。瑞鶴と翔鶴の搭載機数84機、最高速力34ノット、航続距離18ノットで 9,700浬と言う性能は海軍の空母で最大の攻撃力を持っていて、少し遅れて建造された米空母のエセックス級と匹敵する性能を誇っていた。

瑞鶴は竣工後、姉妹艦翔鶴と第五航空戦隊に所属し、真珠湾攻撃に参加した。瑞鶴からは計58機が出撃し未帰還機ゼロという幸運なスタートを切ったが、この幸運は最後までこの艦を守ることになる。その後、1942年1月、ラバウル攻略戦、ニューギニア島ラエ攻撃、4月にはセイロン沖海戦に参加、そして5月、ポートモレスビー攻略戦に参加、珊瑚海海戦でサラトガを撃沈、ヨークタウンを撃破したが、翔鶴が被弾して大破、艦載機多数を失ったことからミッドウェー海戦には参加できなかった。
 
瑞鶴は、ミッドウェー海戦で4隻の正規空母を失った日本海軍機動部隊の中核として1942年8月、ガダルカナル島争奪戦に参加、第二次ソロモン海戦、10月には南太平洋海戦などに参加し、他艦と共同で米空母ホーネットを撃沈した。1943年には4月のい号作戦、11月のろ号作戦で艦載機をラバウルへ進出させ、ソロモン・ニューギニア方面での戦闘に従事したが、艦載機多数を失い、機動部隊再建に大きな問題を残した。1944年6月には、あ号作戦でマリアナ沖海戦に参加したが、米軍の多重防御に阻まれ戦果はなく、姉妹艦の翔鶴を失い、自らも開戦後初めて直撃弾を受けて艦橋を小破した。
 
その後は機動部隊の再建に励むも米軍の侵攻の速度に追いつかず、10月、捷一号作戦の一環として小沢治三郎中将が指揮する囮機動部隊の旗艦となり、フィリピン北東へ進出、そこで米軍機の攻撃を受けて魚雷7本、直撃弾10数発を受けて沈没した。
 
瑞鶴はミッドウエイ海戦後、不燃化を推進し、捷一号作戦の頃は艦内に可燃物は見当たらないというほどに徹底した不燃化を行い、ガソリンタンクの周辺をコンクリートで固めるなど揮発油の防漏にも努めた。その結果、建造当初は魚雷2発までの被害に耐えるよう設計されていた空母だったが、7発もの魚雷被害に耐えるまでに防御が強化されていた。
 
瑞鶴は開戦時から連合艦隊が壊滅し、海軍としての機能を失うレイテ沖海戦まで戦い続けた唯一の正規空母で、その性能は米国の正規空母に引けを取らなかったが、瑞鶴のライバルとされたエセックス級空母を24隻も就役させた米海軍には抗し得ず、最後は日本海軍機動部隊の栄光を一身に背負って勇戦敢闘し、南シナ海に沈んだ。
 
瑞鶴はマリアナ沖海戦まで数々の海戦に参加しながら一度も被害を受けたことがなく幸運の空母と言われたが、最後は100機ほどの艦載機しか持たない囮機動部隊の旗艦として出撃せざるを得なかったことは悲劇的としか言いようがない。それでも58機の攻撃隊を米空母軍に向かって発進させ、戦艦に匹敵する強靭な耐久性を示して最後まで機動部隊の主力艦として戦ったことは日本海軍機動部隊の主力空母としての意地と誇りを示したと言えるだろう。
 
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