日本海軍は情報には冷淡だったが、物理的な戦略・戦術偵察には熱心だった。一般に艦上偵察機の開発は世界ではあまり顧みられない分野だったが、海軍は戦局の忙しくなりつつあった時期に、高速で砲範囲の洋上を偵察することが出来る偵察機として、敢えて、「十七試艦上偵察機」の試作を始めた。それが、「彩雲」と名付けられた三座の艦上偵察機だった。
 
この機体は、直線的で細い胴体と大径プロペラ、長い主脚を持った極めて流麗な機体で、設計に制限のある艦載機という条件の中で、高速性能に的を絞って胴体をエンジンカウリングの直径そのままの直線的な構成とし、前面投影面積を減らしている。主翼は小型化し、面積を減らし、その上、当時最新の層流翼を採用している。さらに機体表面に厚版を用いることで撓みを低減し、空気抵抗を減らしている。
 
艦載機として離陸性能を確保するために大直径のプロペラを採用、主脚はそれに合わせた長い脚となった。面積を切り詰めた主翼には、前縁スラットや親子式のファウラーフラップなどの高揚力装置を盛り込み、最大揚力の向上を試みている。また、機体寸法を空母のエレベーターのサイズに合わせて、全長を11mに抑えたことから、垂直尾翼の後縁が3点姿勢で垂直となり、通常姿勢では前傾した独特のスタイルを作り出している。発動機は当時の主流とされた軽量、小直径のを搭載し、出力が足りない分は機体設計と推力式単排気管によるロケット効果で補うこととしている。
 
1944年9月に、艦上偵察機「彩雲」(C6N1)として正式採用となったが、量産機は6月から実戦配備され、メジュロ環礁やサイパン島、ウルシー環礁などへの状況偵察を行っている。その際、追撃してきたF6Fを振り切ったときに発した「我ニ追イツクグラマン無シ」の電文は、高速性能を誇る本機にふさわしい有名なエピソードだという。
 
「彩雲」は、その高速性能を生かして、マリアナ諸島東方哨戒、房総半島東南方哨戒に活躍した。局地戦闘機「紫電改」を装備した第343海軍航空隊の偵察飛行隊でも、「彩雲」が使用されている。また、高高度性能の良さを活かして30mm斜め銃を装備して夜間戦闘機としてB29迎撃にも使用されたが、機体強度が射撃時の反動に耐えられず、実戦で威力を発揮することはなかったようだ。
 
他の日本機の例にもれず、試作段階では高速を発揮した彩雲だったが、誉の不調や低品質の燃料などの問題等から、量産機は610km/h程度の最高速度に止まったようだ。それでもF6Fよりは優速だった。それでも、当時の艦載機としては世界レベルにあったことに間違いなく、戦後、アメリカ軍によって高オクタンのガソリンと、アメリカ軍仕様のエンジンオイルを使用し性能テストが行われた際には、日本側の数値を遥かに超える694.5kmを記録したという。これは太平洋戦争で、日本軍が実用化した航空機の中でも最速記録だという。
 
「彩雲」は地上にあると月に向かって吠える大鹿のような力強さがあるが、飛行中は細身の繊細な天女のような美しさがある。羽衣をまとって色彩なす雲の果てまで飛んで行きそうなその姿はまさに「彩雲」であり、軍用機らしからぬ情緒溢れる良い名前の美しい機体で性能も群を抜いていたが、登場が戦争後半期では活躍の場は限られていた。そんなことを思いながら改めて眺めてみると「彩雲」という美しい名前はどことなく現世を諦めた悲しさが感じられる様な気がする。
 
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