正面から見ると零戦に似たフォルムの戦闘機、「おや、これって何だろう」と興味を持ったのが五式戦闘機だった。この戦闘機は液令のDB601の出力向上型であるハ140の生産が不調で、エンジンを装備できない「首なし三式戦闘機「飛燕」」が、300機近くに増えてしまったことから早急にエンジンを生産に余裕のある空冷のハ112に換装したものだった。
戦争末期で航空戦力が逼迫し、300機もの未完成の戦闘機を放置しておくほど余裕のない陸軍だったので、エンジンの換装は当然の措置だったが、液令エンジンを装備することを前提に作られた三式戦の機体に直系の大きい空冷エンジンを装備することはそう容易なことではなかったようだ。しかし、当時は、「大東亜決戦機」として期待された四式戦闘機「疾風」(キ84)も、小型軽量高出力を目指して開発されたハ45エンジンの不調に悩まされており、稼働率の高い陸軍戦闘機は開戦以来の一式戦闘機「隼」(キ43)のみという状態だった。
そんな状況で直系の大きいエンジン部分と細い胴体の間にフィレットを取り付け、排気推力でそこに生じる過流を吹き飛ばすという手法でエンジンを換装して、開発開始から3ヶ月後の1945年2月に初飛行に漕ぎ着けたという。
武装は三式戦二型と同じ、20mm機関砲2門、12.7mm機関砲2門で当時の日本戦闘機の標準的な武装だったようだ。口径の異なる機銃を混載することの功罪もあるだろうが、対B29を考えると20mm機銃は必須だったのだろう。
完成した機体は、正面面積が三式戦に比べてやや増大したことから、最高速度がやや低下したこと、機首が短くなったため縦安定性が悪くなり、離陸直後の低速時の姿勢保持に問題があったことなどの欠点はあったが、ラジエターなどの補機類や尾部のバランスウエイトが不要になったことで330キロほどの軽量化に成功したことから、上昇力、運動性能が格段に向上したという。また、強度の高い頑丈な機体は、800km以上の急降下速度に耐えることができたようだ。また、最高速度580kmは当時の世界水準からは物足りないが、低高度ではさほどそん色はなく、垂直面での運動性の高さが際立っていたという。
ハ112はここでも何度も触れたが、安定した性能の当時の日本では最高性能の戦闘機用エンジンだったが、燃料噴射ポンプなどの補機類の生産がネックとなったことや空襲、地震の被害で生産は先細りとなり、最終的に生産された五式戦闘機は390機ほどだったという。また、ハ112Ⅲはインジェクターなどの初期不良もあったようだ。
配備が終戦間際だったことや配備直後で転換訓練中であったために大規模な活躍はないようだが、昭和20年6月に飛行第111戦隊が、B29を迎撃して6機を撃墜した戦闘、7月末に琵琶湖上空でF6F18機に16機で空戦を挑み、12機を撃墜した戦闘(米軍の記録では例によって損害は2機のみとなっているようだが)、あるいは硫黄島から来襲したP51とも戦闘を交えているようだ。P51とも低空ではなかなかいい勝負をしたようだが、急降下に入るとP51には追いつけず簡単に振り切られたという。
五式戦の評価はなかなか高いようで、当時の陸軍の中で最優秀と言う意見もある。零戦54型も誉の不調に苦しむ紫電改を凌いで当時の海軍機で最優秀と言う評価があったようだが、そんなことなら最初から金星を装備した戦闘機として設計した方が良かったのかもしれない。しかし、当時の日本にDB601をきちんと生産できる技術力があれば三式戦で戦えたのだから、やはり技術力と言うのは戦力を左右する重要な要素のようだ。
五式戦は、三式戦のエンジン不調のために急きょ生まれたピンチヒッターのような戦闘機だが、陸軍最後の戦闘機が粗製乱造の特攻機などではなく、戦果はともかく、そこそこまとまったいぶし銀のような優秀な機体であったことには何となく救いを覚える気がする。
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