海軍最後の戦闘機と言われる紫電改は、紫電一一型を低翼化した「仮称一号局地戦闘機改として誕生した。この試作機は主翼配置を低翼とし、胴体全体を「誉」の直径に合わせて絞り込むなど主翼以外はほとんど新設計と言ってもいいほどの改造で生産性にも配意していたという。
零戦の弱点であった防弾装備についても、主翼や胴体内の燃料タンクは全て防弾タンク(外装式防漏タンク)で、自動消火装置も装備されていたという。操縦席前方にも防弾ガラスが装備されていたが、操縦席後方の防弾板は未装備だったようだ。しかし、防弾板が装備された機体を目撃したという話もあるようだ。
試作機のテストでは速度、運動性とも良好な性能を示し、1945年1月に、「紫電二一型(N1K2-J)紫電改」として正式採用になった。紫電改を高く評価した海軍は烈風の代わりに零戦後継の次期主力制空戦闘機として配備することを決定し、三菱に雷電と烈風の生産を中止して紫電改の生産を指示するなど産業界を総動員した大量生産計画を立てたが、戦況はそんな生産を許すような状況ではなく、400機強が生産されたに止まった。
こうして連合国軍の最新鋭戦闘機と互角に戦える新鋭戦闘機として登場した紫電改は、1945年2月に硫黄島攻略戦の前哨戦として敢闘に来襲した米軍艦載機と交戦し、その性能の一端を示して戦果を挙げたという。その後、松山基地で編成された343航空隊が、本機を集中使用して、歴戦のパイロットを投入し、無線機(無線電話機)を活用した編隊空戦法により大きな戦果を挙げたという。しかし、歴戦搭乗員とは言ってもほんの一握りで、開戦時の搭乗員に比較すると大部分が練度において劣っていたようだ。
紫電改の性能は同時期に開発され、同じ発動機を搭載する陸軍の四式戦闘機「疾風」と比較すると最高速度は紫電改の方が劣っている。紫電改の試作時における最高速度は335ノット程度、水平全速で348ノットほどと言うが、四式戦よりも30km/hほど遅いようだ。これは主に中島と川西の戦闘機生産に対する習熟度の問題と誉エンジンの工作程度が落ちていたからだという。しかし、翼面積は紫電改の方が23.5平方メートルと四式戦よりもやや大きめだったことにもよるのではないかともいう。つまり紫電改は四式戦よりやや速度は遅いが、旋回性能がよいということになるようだ。
紫電改のテストを行った米軍の記録では、「当時のどの米海軍の現役戦闘機よりも優速であった」というコメントが残されているようで、昭和20年10月に米軍に引き渡すため、横須賀に空輸した際も、米軍のハイオクガソリンを用いて全速で飛ぶ非武装の紫電改に、実弾を装備したF4Uが置き去りにされそうになったという。戦後の米軍のテストでは日本の軍用機はおおむね10%程度速度が向上していたというので、紫電改も660~70キロ程度の速度は出たのだろう。戦後来日した米空軍将校団の中に紫電改に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみたという士官がいたそうだが、その言によれは、どの米戦闘機も紫電改に勝てなかったという。
しかし、総力戦は個々の機体の性能よりも生産量や補給・運用など総合的な能力が勝敗を決めるので米軍の燃料や補給品を使って高性能を出せたからと言って、優秀な機体だったと喜ぶのは少しばかり意味が違うのかもしれない。また、他の日本戦闘機と同様に高高度性能が不十分でB29の迎撃には苦労したようだ。戦争末期に登場した紫電改は未熟ななパイロットが多かったことや誉の工作精度が低下し、燃料、オイルなども誉に見合った物が使用されなかったこともあって評価は分かれているようだが、それでもほとんど米軍の新鋭機に対抗できなくなっていた零戦に比べれば高性能の戦闘機で米軍にとって戦場では厄介な存在だったようだ。
紫電改を集中的に使用した343空は、偵察情報を重視し、艦上偵察機彩雲を装備する偵察第4飛行隊を付属し、編隊空戦の重視、空中無線電話の改善等、当時の海軍戦闘機隊の中にあっては画期的な運用法を行ったようだ。1945年3月には、米軍艦載機を迎撃して58機撃墜という大戦果を挙げたというが、米軍側の記録では14機喪失で、ほぼ互角の戦闘だったようだ。
その後も沖縄戦に伴う菊水作戦に参加、圧倒的劣勢の中で米軍に痛撃を与えたこともあったようだが、衆寡敵せず、8月8日の戦闘を最後に終戦を迎えた。343航空隊編成から終戦までの6ヶ月の間に約170機を撃墜したというが、米軍側損失記録判明分では40機程度と戦果は大きく隔たる。米軍も負け惜しみが強いので実際にその程度だったのかどうかは分からないが、戦果報告の半数程度としても80~90機程度であれば、343空の喪失は搭乗員80名程度というので、圧倒的に不利なあの状況でそれなりに互角の戦果を挙げたことは勇戦敢闘したと言っても間違いないだろう。
零戦の後継として名前が挙がっているのは「烈風」だが、あの機体は運動性を重視し過ぎてあまりにも翼が大きすぎるように思う。紫電改に三菱のハ43エンジンを搭載する計画があったというが、人によっては「烈風」よりもハ43を搭載した紫電改5の方がF8Fベアキャットの対抗馬として有力であったのではないかと言う。いずれにしても紫電改は実戦に参加した日本戦闘機の中では最新最強の戦闘機であったことは間違いない。
宇和島に海中から引き揚げられた紫電改が展示されているが、ほとんど発見時の状況のままで復元は行われていないものの両脚を踏ん張って空を見上げる猛獣のようなその姿は零戦にはない力強さがある。戦争末期にどこでもボロ負けに負けていた日本陸海軍だが、そんな状況で米軍に一目置かせたその戦いぶりには、負け惜しみと言われても、「思い知ったか、鬼畜米軍」と言えるものがある。しかし、技術的にも生産力でも米国に大きく劣った日本が劣勢を挽回するなど夢物語にもならず、343航空隊と紫電改の健闘も一時的に負け戦の溜飲を下げる程度でしかなかったのは言うまでもない。
しかし、この悲壮感の漂う「紫電改」という戦闘機は個人的には太平洋戦争に参加した軍用機の中で最も好きな戦闘機でもある。それは負け戦に崩壊していく国家を支えようと命をかなぐり捨てて死に物狂いで戦った隊員の直向きな心が伝わってくるような気がするからかもしれない。
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