日本の戦車の真打の一方である四式中戦車 チトは、当初は47mm戦車砲搭載として計画され、さらに長砲身57mm戦車砲搭載に変更されたが、この主砲が威力不足と言う理由で長砲身75mm戦車砲を搭載することになり、装甲も最大装甲厚75mmとようやく世界の中戦車並みの装甲厚となって登場することとなった。
主砲の、「試製七糎半戦車砲(長)」は、日中戦争初期において日本陸軍が鹵獲した、スウェーデンのボフォース社製75mm高射砲をコピーした四式七糎半高射砲を戦車砲に改造したもので、ドイツ軍の88mm高射砲の原型となった優秀な火砲であった。この五式七糎半戦車砲長II型は口径75mm、砲身長56口径で、貫通力は、米軍のM4中戦車の正面装甲を、射距離1,000mで貫通することが出来たという。1945年3月に行われた試射では、一式徹甲弾の場合、射距離1,000mで75mmの装甲を貫通したという。
本車の防御力は、車体前面が75mm、側面25mm、砲塔前面75mm、側面25mmと当時の世界の中戦車の防御水準に追いついたが、砲塔は鋳造したパーツを溶接したもので、車体も前面は2段構成であるなど、実際の防御力は額面よりもやや劣ったようだ。
それでも火力、装甲防御力とも何とか世界水準に達したこの戦車が戦場に投入されていれば、M4中戦車となら正面から撃ち合いが出来ただろう。米軍は戦後この戦車を調査して、「これが戦場に投入されていればグアムやレイテの戦車戦は様相が変わっただろう」と評したという。これを捉えて、この戦車を過大評価する向きもあるが、同数なら互角の戦車戦になっただろうという程度の評価だろう。しかし、生産台数や補給などの能力が日米で隔絶していたので、互角とは言っても一時的なものであっただろうことは言うまでもない。
この戦車は、戦後、九七式中戦車、ウィンザー・キャリアと共に浜名湖北の猪鼻湖に沈められていることが分かったようだが、引き上げ運動も漁業補償問題に阻まれて実現していない。日本戦車の一方の真打は世に出ることなくひっそりと湖底に眠ってる。
もう一方の真打は、四式戦車と同時期に開発が進められていた五式戦車で、武装は四式中戦車と同様の「試製五式七糎半戦車砲(長)」だったが、半自動装てん装置がつけられていた。しかし、この砲は量産に適した設計ではなかったために原型の高射砲自体の生産が、70門と少数であり、戦車砲に至っては2門しか生産されず、半自動装てん装置の生産に手間取ったこともあって、この戦車は終戦時まで主砲を装備できない状態だったようだ。
副武装としては、一式37mm戦車砲を車体前部に装備していたが、この時期に小口径の37mm砲がどの程度役立ったかは疑問がある。この戦車に副砲を搭載した目的は、装填間隔が長く取り回しに難のある主砲に代わり、不意遭遇した敵火点、歩兵等の脅威を除去するためのものだったようだ。
車体形状や砲塔形状は概ね四式中戦車と似ているが、砲塔は鋼板の溶接構造でこの戦車から砲塔バスケットを装備したという。これでバスケット内に立つ装填手は砲塔の回転に合わせて自ら移動する必要が無くなり負担が減ることになったという。装甲厚も概ね四式中戦車と同様だったようだが、車体は避弾経始も若干は配慮されているが、ドイツのパンターやティーガーII、M4中戦車、ソ連のT-34などのように、車体前面が一枚板の傾斜装甲ではないので四式中戦車同様防御面でやや不利だったといわれる。
この戦車は、1945年にはほぼ完成していたが、四式中戦車が、75mm砲を搭載するよう開発計画が変更されたため、この戦車の整備数は、昭和19年度に5両、昭和20年度は、0両と量産は断念し、放棄されたようだ。
戦後、本車に興味を示した米軍により未完成の車体は接収されたが、米国本土への搬送途中に嵐に遭い、船上から海中に投棄されたという。四式中戦車も五式中戦車も米軍のM4中戦車を撃破し得る国産戦車として期待されながらいずれも戦場に出て敵戦車と砲火を交えることもなく、今は静かに水の中で眠っているようだ。
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