M4中戦車に手も足も出ずに蹂躙された日本軍は、これに対抗する新戦車として四式中戦車 チトと五式中戦車 チリを開発していたが、実用化までには時間がかかることから1944年に、一式中戦車の武装を強化した三式中戦車を開発した。しかし、短時間で実用化しなければならなかったことから90式野砲を最小限の改造で戦車砲として搭載したために、駐退復座機が砲塔外への露出し、砲塔が過大になる等の不利な点が生じたようだ。
 
本車が搭載している戦車砲は九〇式野砲を基に、一式砲戦車に搭載したものをさらに改修して三式七糎半戦車砲II型とした。原型が野砲のため、砲手が発射装置を持たず、照準だけを行い、発射は戦車長が担当するという変則的な作業だったようだ。これでは車長が索敵と指揮に専念することが出来ないほかに移動目標への機敏な対応が取れないという問題があったようだ。
 
砲の威力としては距離1,000mで75mm、距離500mで80mmの装甲を貫通する能力があったというが、M4中戦車の装甲が砲塔前面で76mm、車体前面が約50度傾斜し、避弾経始が良好なことから、実戦では100m程度でないとM4中戦車の装甲を貫通できないと言われたようだ。しかし、M4中戦車の側面は2,000m、砲塔側面も1,600mから貫通可能だったという。
 
正面からの戦闘ならM4中戦車には対抗はできないが、最後まで高い練度を維持していた日本軍戦車兵であれば偽装や塹壕などを利用してそれなりにM4中戦車を痛撃しただろう。また75mm砲弾なら貫通しなくてもそれなりの威力があるだろうから内部の機器を破壊するなど相応の効果はあっただろう。命中率に関しては、1945年に富士演習場で行われた実弾射撃訓練で、距離3,000mで畳一枚分の標的を狙い、初弾を命中させて乗員が驚いたというから非常に高精度だったようだ。
 
防御は、砲塔前面50mm、側面が35mmから25mm、後面が25mm、上面が10mm、車体は一式中戦車と同様で、前面50mm、側面25mm、後面20mm、上面12mm、底面8mmで避弾経始はあまり考慮されておらず、M4中戦車の砲撃には耐えられなかっただろう。機動性は、一式中戦車よりも重量が増加したことからやや低下しているが、概ねM4中戦車などと変わらないようだった。
 
三式中戦車は、M4中戦車に、火力と防御力に劣っており、戦車本来の機動戦闘を行うことは困難だったため、退避壕に戦車を秘匿し、至近距離で射撃し、反撃が来る前に陣地転換し射撃を継続するという「砲戦車」的なものにならざるを得なかっただろう。しかし、従来の一式砲戦車 ホニIに比べ密閉型の旋回砲塔を持つことから、敵の事前砲爆撃に対する生残性は比較にならないほど高く、砲が全周旋回することから柔軟な戦闘が可能だっただろう。
 
しかし、何よりも問題なのはその生産量で、一式中戦車の改良型だったため、量産体制の移行は容易だったようだが、1944年12月の量産開始で、60両程度しか生産されなかったようだ。三式中戦車と共同で運用されるはずだった三式砲戦車は、当初から対戦車戦闘を主眼において開発された日本初の砲戦車というが、これも1944年から量産が開始され、60~100両程度しか生産されず、5万両も生産されたというM4中戦車の前には児戯にも等しい生産力でため息も出ない。結局、日本のような国の軍隊は戦車などの手のかかる装備よりもせめて高威力の対戦車兵器を開発して歩兵に装備させるべきだったのかもしれない。
 
三式中戦車は本土決戦用として温存されたために実戦には参加していないようだが、仮に外地の戦場に運ぼうとしても制空・制海権を取られていては輸送船が撃沈されて海没するだけだっただろう。終戦後処分のために集められた三式中戦車の姿は日本戦車らしからぬ大型の砲塔を装備してなかなか立派に見える。その大部分は米軍に処分されたが、2両だけが残され、そのうちの1輌が茨城県土浦の陸上自衛隊武器学校に八九式中戦車とともに展示されている。戦後に開発・装備された61式戦車、74式戦車、90式戦車などとともに展示されているが、これらの戦車を見て三式中戦車は何を思うだろう。
 
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