帝国陸軍には一式砲戦車という自走砲があった。これは九七式中戦車の車体に90式野砲を搭載した自走砲だった。この野砲はフランス・シュナイダー社製の野砲を国産化したもので師団砲兵の大口径化で機動90式野砲と合わせて800門程度しか生産されなかったが、なかなかの優れもので、機動一式47mm対戦車砲を凌ぐ装甲貫徹力を持っていた。
一式破甲榴弾を用いて射撃すると、500mで約100mm、900mでは75mmの装甲を貫通できたそうだ。だから戦争末期に急きょ開発された三式中戦車の主砲に用いられたり、戦場では対戦車砲としても重宝されたようだ。一式砲戦車はオープントップの戦闘室にこの野砲を装備し、車体正面は約40mm、防楯前面は50mmの装甲厚があったという。しかし、当時の自走砲の例として戦闘室はオープントップ式で上面と背面の装甲は装備されていない。昭和16年に制式化されたが、生産能力不足から一式十糎自走砲 ホニ II と合わせて138両ほどしか生産されなかったようだ。
装備後は戦車第二師団の機動砲兵第2連隊に4両が配備され、激戦だったフィリピン戦のサラクサク峠の戦闘に参加している。この戦闘で一式砲戦車は、念入りに偽装された壕内で待機し、敵を引きつけて射撃したため、侵攻してきた米軍に痛撃を与えたようだ。奇襲を受けた米軍が混乱する間に壕を移動し、ノモンハン戦生き残りの優秀な部隊幹部の指揮のもとに米軍のM4中戦車に対して、距離500mから正面装甲を貫いて撃破したようだ。日本軍も同性能の戦車を装備しなくても、せめて相手の戦車の最厚部の装甲を貫ける砲を装備した戦車を与えてやればそうむざむざと敗れるような軍隊ではなかったことを証明した。
昭和20年3月31日には本来の野砲として十五糎榴弾砲3門、九〇式野砲2門とともに米軍陣地に4両の一式砲戦車が砲撃を加え、一千発の砲弾を撃ち込み、この砲撃と歩兵の夜襲によって、アメリカ軍第32師団はサラクサク峠前面の天王山から退却を余儀なくされたという。
しかし、たったの4両では戦局を変えるなどと言うのは夢物語にもならず、1両、また1両と破壊され、最後の一式砲戦車は6月3日、バンバン南方にあるジャンクションで撃破されたという。九〇式野砲・機動九〇式野砲はンモンハンの戦闘に投入された後、フィリピン防衛戦のほか、硫黄島の戦い、沖縄戦などでも活躍した。特に沖縄戦では2門の機動九〇式野砲がアメリカ海軍の艦艇を砲撃し、海岸線防御の遊動砲兵として戦ったそうだ。
一式砲戦車の改良型の三式砲戦車 ホニIIIや三式中戦車に搭載されたが、これらは本土決戦のため内地に温存され戦場で戦うことはなかった。
日本陸軍の徹甲弾は冶金技術の遅れや、高価な材質を使えない経済的事情から徹甲弾の性能でも大きく劣っていたようだ。米軍の砲弾はクロム、モリブデン、少量のニッケルなどレアメタルを含有した高炭素鋼だったが、日本側の砲弾は炭素0.5%から0.75%を含む鋼を搾出して成形、これを蛋形に加工した後に熱処理して硬化し、内部に炸薬を充填した。そのため弾頭の硬度が足りず敵戦車の装甲に当たると変形したり滑って跳弾になったりして威力を発揮できなかったという。
兵器の量で米軍に大きく劣り、質でも抗し得なかった日本陸軍だが、一式砲戦車も昭和16年末に正式化されたが、兵器の生産力や優先順位の問題があって昭和17・18年は1両も生産はされていなかったという。昭和19年以降少数が生産されたが、輸送の問題もあって実戦に参加したのはフィリピンに送られた4両のみだったという。その4両は十分な弾薬の備蓄もあって弱体と揶揄された日本機甲軍の意地を見せる戦いをしたようだ。せめて敵を撃破できるだけの火力を備えたこれらの戦車をそれ相当の数装備させて戦わせてやりたかったように思うが、仮に相当な数を装備したからと言ってもあの戦争に勝てたわけではないことは言うまでもない。戦闘の一局面で敵を痛撃して溜飲を下げる程度だっただろう。
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