日本の対戦車火砲と言えば、まずは九四式37mm砲だろう。昭和10年ころの正式化だろうから、その当時としてはおおむね平均的なレベルの速射砲だろう。これが初めて大規模な戦闘に使用されたのがノモンハン事件だという。当時はソ連の戦車も軽装甲だったことから、多くの車両を撃破もしくは擱坐させたようだ。ソ連の戦車の損失の75%以上がこの砲によるものだったという。その分、損害も多かったというが、負け戦だからこれはやむを得ないだろう。
 
日中戦争では相手に対戦車砲を必要とするような装甲車両もなく、太平洋戦争初期は南方戦線で連合軍の軽装甲車輌を相手に奮戦したが、米国のM3には苦戦したようだ。ビルマでは英軍のM3と交戦した95式軽戦車が全滅し、その後、同部隊と交戦した対戦車砲部隊もその装甲に苦戦を強いられたそうだ。この速射砲も本来ならこの辺りで引退するべき兵器だったのだろう。
 
戦争中期以降は周囲を砂袋や材木で固めた対戦車砲陣地やコンクリートやサンゴ岩で防護したトーチカ内で運用されるようになった。戦争末期にはほとんど対戦車砲として用をなさなくなった本砲だが、北ビルマの戦闘ではたった1門の本砲が、M3中戦車を相手に奮戦し、弾薬を撃ち尽くして砲が破壊されるまでにM3中戦車5輌を擱坐させる戦果を挙げたという。94式37mm砲では至近距離でも側面装甲すら貫通できないのに連続射撃の衝撃で内部を損傷させて行動不能に追い込んだという。こんな神業のような戦闘はまさしく日本陸軍の精華というべきだろう。
 
94式37mm速射砲の後継は、一式機動47mm速射砲だった。これが太平洋戦争中・後期の日本陸軍の主力対戦車砲だったが、徹甲弾の材質の問題があり、M4中戦車には苦戦を強いられたようだ。本来、この時期ならばもう1クラス上の対戦車砲を実用化するか、成形弾を使用すべきだったのだろうが、それが出来なかったところに日本陸軍の悲劇があった。
 
後継対戦車砲として57mm砲が試作されたが、威力不足で正式化されず、結局、この砲が事実上、日本陸軍最後の制式対戦車砲となった。しかし、沖縄戦の嘉数の戦闘では米軍のM4中戦車を後方から射撃するなど砲の配置や戦闘方法を工夫し、肉薄攻撃や山砲との連携で22両のM4を撃破したという。沖縄戦全体では戦車に対する高射砲の水平射撃なども行われ、147両のM4を撃破したという。
 
47mm速射砲は、射撃試験では開戦以来苦戦していたM3軽戦車の前面装甲を1,000mで貫通し、兵士を勇気づけたというが、M4中戦車には苦戦することになった。そのため徹底した偽装を行ったり、半地下陣地や洞窟に砲を隠して、戦車の側面を狙い撃つなど弱点射撃に徹したことで、威力不足を補って多くのM4中戦車を撃破したという。こうした日本軍の戦法に苦杯をなめた米海兵隊は戦車の砲塔や車体側面に履帯を巻き付けたり、車体側面に磁気吸着地雷除けの板材を付加したり、車体との間にコンクリートを流し込んで防御するなどの対策を行ったが、フィリピン戦以降に参戦した陸軍は対策が不十分で意外に多くの損害を出したという。
 
日本では生産能力の不足から陸軍火力の基本である野砲でさえも十分な数を生産できず、太平洋戦争中、日露戦争当時に実用化された38式野砲や改造を加えた38式野砲改なども使用されていたというから対戦車砲など性能も数もまことに不十分で、成形弾などの新兵器も配備されず、その分は現場の工夫と血で贖わなければならなかったのは悲惨と言うほかはない。そんな状態でも果敢に善戦した日本軍の生真面目さは現在の現場力に通じるものがあるのかもしれない。
 
95式軽戦車などに搭載された37mm砲や九七式中戦車改や一式中戦車に搭載された47mm砲は、いずれも原型の速射砲より若干砲身が短くその分威力も劣ったようだ。そんな時代にそぐわない対戦車兵器しか与えられずに苦闘した日本陸軍だが、47mm速射砲を英国の士官が、「Effective gun」と評価したようだ。要するに、「有効な砲だった」という評価だが、日本軍の最後まで衰えなかった戦意と高いレベルを保持した技量と相俟って、威力不足の砲でも撃たれる方には嫌な砲だったのだろう。これを以て劣悪な装備で敢闘した日本陸軍へのせめてもの餞としたい。
 
日本ブログ村へ(↓)