帝国海軍は開戦時60隻強の潜水艦を保有し、戦争中120隻を超える潜水艦を就役させて戦争を戦った。しかし、期待された潜水艦隊の活動は決して華々しいものではなかった。本来潜水艦と言う艦種は水中を航行できるという能力と引き換えに水上での航行性能や武装を犠牲にしている。現在の原子力潜水艦などは乗員さえ堪えられればほぼ半永久的に潜航して作戦行動が可能だが、当時の潜水艦は可潜艦ともいうべきもので潜航することもできる艦船という程度のものだった。
当時の潜水艦は魚雷を除けば中口径砲1門と機銃数門を備える程度で水上での戦闘能力は極めて低い。航行性能もいいところ10数ノット程度で水上艦艇とまともに交戦などできないし、潜航しても潜航深度100メートル程度、数ノットの速力で10数時間を走れる程度のものだった。そんな脆弱な潜水艦の唯一の強みは水中から不意に強力な魚雷で攻撃できること、つまり隠密性と奇襲だった。
帝国海軍はそんな潜水艦に米国の主力艦隊を襲撃して漸減させるという任務を与えた。そのために訓練を重ねたが、対戦能力の低い日本艦隊には十分な威力を発揮して大いに期待されたが、ドイツと英国の潜水艦戦に学び、高性能な対戦兵器で武装した米国には通用しなかった。開戦劈頭のハワイ戦ではオアフ島の周囲に配置され入出港する艦船の監視と攻撃任務が与えられたが、米国の艦艇に制圧されてほとんどなすところがなかったという。
その後も戦闘の激化に従って泊地攻撃や制空制海権を失った地域への隠密輸送などおよそ潜水艦にとって不得手な作戦にばかり使用され、消耗を重ねた。哨戒線に定間隔に潜水艦を配置したことから1隻が発見されると後は芋蔓式に撃沈されて多くの潜水艦が失われたこともあったようだ。
また、レーダーも高性能の音響兵器も魚雷発射用の射撃指揮装置もなく防音性も低い日本の潜水艦はレーダーや高性能の音響兵器で武装した米国の水上艦艇や航空機に次々と撃沈されていった。潜水艦の乗員からは広範囲の海域に展開して発見した敵艦船を攻撃する自由攻撃戦法に切り替えるよう再三にわたって意見具申されたが、聞き入れられることはなかった。
そんな不利な戦いを強いられながらも日本の潜水艦はそれなりに健闘した。空母サラトガを大破させ、ミッドウエイではヨークタウンを撃沈し、南太平洋では空母ワスプを撃沈するなど戦果は挙げていたが、損害がそれを上回っていた。特に制海・制空権を失った南太平洋での輸送任務は潜水艦に大きな消耗を強いた。
そんな苦闘の連続の潜水艦隊に本来の任務が与えられたのは昭和20年4月の末だった。太平洋をフィリピン・沖縄などに向かう米軍の補給線攻撃だった。この戦闘では日本潜水艦は回天を搭載し、補給線上を西に進む米国艦船を攻撃し、油槽船・輸送船15隻、巡洋艦2隻、駆逐艦5隻、水上機母艦1隻、艦種不明6隻、計29隻撃沈、2隻を大破させた。最後の一ヶ月は6隻で編制した潜水艦隊は、敵艦10数隻を撃沈破し、喪失は1隻もなかったという。
当時、米軍は日本側の攻撃を完全に封殺したとして補給線上を護衛もなしに輸送船などが航行していたというが、正当な方法で活動すれば日本潜水艦も十分に戦果を挙げ、活躍できるということを証明して見せた。終戦後、戦後処理の打ち合わせにマニラに向かった日本側代表に米軍サザーランド参謀が発した第一声は「回天を搭載の潜水艦は海上にまだいるのか」で、7隻が行動中である旨の回答に「それは大変だ、即刻降伏を伝達し、帰還させよ」だったという。勝ち誇った米軍に日本潜水艦隊の健闘が大きな衝撃を与えていたことの証左だろう。
米国太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は、著書の中で、「太平洋戦史」の中で日本の潜水艦について「これほど強力で期待された兵器が、まったくその能力を発揮しなかったという事実は史実上類をみない希有の例である」と述べているそうだが、日本潜水艦隊に早い時期にレーダーを装備させて広い海域で自由攻撃をさせていたらそれなりに大きな戦果を挙げていたかもしれない。凝り固まった柔軟性のない思考に基づく命令で潜水艦の特性に合わない作戦に投入され消耗を重ねながら戦い続けた日本の潜水艦だが、乗組員は困難な任務をよく戦ったというべきだろう。
日本ブログ村へ(↓)