石油の一滴は血の一滴とまで言い、石油の備蓄量をよりどころに開戦を決意した帝国海軍だが、太平洋戦争開戦前、日本は対米開戦の場合には南方の資源を確保して長期持久体制をとることを構想していたわりには海軍が、南方資源を日本本土まで輸送するシーレーン確保のための戦略を真剣に検討した様子はない。
 
米国は、開戦した場合、海上封鎖によって日本のシーレーンを遮断し、継戦能力を奪うことを開戦前より決定していたようだが、開戦当初は日本側が優勢だったこと、フィリピンを失って西太平洋における米軍の活動拠点がなくなったこと、潜水艦の不足や魚雷の不具合などで米軍の潜水艦の活動が不活発だったことなどもあって開戦後も、海上交通に対する被害は軽微だった。
 
そのため海軍のシーレーン護衛艦艇は少数の旧式駆逐艦、水雷艇、掃海艇などあり合わせの艦艇で、シーレーン護衛に関する戦略も何もなかったようだ。そのため商戦はほとんど護衛なしで航海をしていたが、昭和18年以降徐々にっ被害が増加し始めた。米軍の反攻作戦が本格化すると、米軍は日本に対する通商破壊作戦を本格化させ、南方から日本本土への資源輸送を大きく低下させ、日本国内の工業生産力や、国民生活にも重大な影響を及ぼし始めていた。
 
これに慌てた海軍は昭和18年11月に海上護衛総隊司令部を新設してシーレーンの防衛に乗り出したが、護衛用艦艇の絶対数の不足により諸外国のような大規模な護送船団を編成することができず、わずかな護衛空母が配属されたが、飛行機を飛ばせる昼間はともかく夜間は逆に潜水艦に撃沈される始末で、護衛戦力として有効に機能しなかった。
 
昭和19年の後半から20年になると昼間は航空攻撃、夜間は潜水艦からの攻撃で船団が日本までたどり着けるかどうかはほとんど神頼みのような状態になり、日本の産業活動は窒息してしまった。昭和20年3月以降、石油や戦略物資はもとより食料も一切、内地には届かなくなった。
 
資源を求めて開戦した日本がシーレーン防衛に力を入れなかったのは決戦主義に傾斜していたためだろうが、四周を海に囲まれている日本のような国はもう少しシーレーン防衛に真剣に取り組むべきだっただろう。国力のない国だから海上決戦に勝利すればおのずとシーレーンも確保できるという考え方もあるだろうが、もう少し護衛艦艇の建造整備に力を入れるべきだっただろう。
 
戦争後期に建造された松型駆逐艦や丙・丁型海防艦など300隻くらいと核になる護衛空母で護衛した大船団方式であったらもう少しは物資を輸送できたかもしれないが、フィリピンを失ってからはもう米軍のしたい放題だったので何をやっても無駄だっただろうが。
 
それと対戦兵器、感度の良い水中調音機と対戦前投兵器がなかったことが被害に拍車をかけたというが、戦争後期にはそれなりのものが出来ていたようだし、対戦前投兵器も20センチ噴進砲などは有効な対潜前投兵器になり得たのではないだろうか。
 
どうやっても勝目はなかった太平洋戦争だが、短期決戦戦略にしても長期自給戦略にしても中途半端な感が否めないのはそれだけ海軍が開戦を躊躇っていた証左だろうか。それにしても戦争末期になって海防艦120隻ばかりを量産したのだから、やればできるのならもう少し早めに手を打っておいても良かったように思う。
 
丙・丁型海防艦にしても急造艦ながらそれなりに装備の整った艦だったのだから対戦兵器と戦法を研究しておけばもう少し結果は違ったようにも思える。国家総力戦と言う現実を認識していながらそこから目をそらして局地的な戦術的勝利ばかりを追い求めたとしたら日本海軍は近代戦を戦う資格がなかったと言われても仕方がないかもしれない。
 
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