帝国海軍は日露戦争に勝利した後、仮想敵国を米国として海軍力の増強に努めた。そして最後にたどり着いたのが、戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を基幹とする八八艦隊案だった。その第1番艦、第2番艦が長門、陸奥だった。その後14席の戦艦・巡洋戦艦を建造してこの艦隊整備案を完成させると海軍の予算だけで国家予算の6割を占めるようになるというから端からこの案は貧乏国日本には無理な話だった。
 
そこに持ち出されたのが、第一次世界大戦で疲弊した英国から提案されたワシントン海軍軍縮条約だった。この条約で日本は主力艦の保有トン数を英米の6割に制限された。その後、ロンドン海軍軍縮会議では補助艦の保有トン数を8インチ砲装備の巡洋艦で英米の6割、それ以外の補助艦を合計すると何とか英米の7割弱となった。
 
山本五十六などは、「日本の国力で米国と建艦競争などできはしない。これは向こうを縛る条約だからこれでいいんだ。」と達観していたようだが、収まらないのは艦隊派と呼ばれた海軍増強派だった。条約派と呼ばれた軍縮穏健派の将官を次々に首を切り体制を整えるとともに割り当てられて制限トン数の範囲で海軍力を増強しようと躍起になった。
 
8インチ砲を装備する条約型重巡洋艦8隻、いざとなれば重巡洋艦に改装可能な最上型4隻、排水量の割に重武装の特型駆逐艦など、軽量化のために電気溶接を多用し、武装を強化した艦艇を次々に世に出した。ロンドン条約で補助艦も制限を受けるようになると制限外の水雷艇に駆逐艦並みの武装をした水雷艇などを建造した。大艦巨砲ではなく小艦巨砲を地で行ったような艦艇の建造ぶりだった。
 
こうした小艦巨砲の艦艇の就役でほっと胸をなでおろした海軍だったが、艦艇の小型軽量・重武装化は思わぬ問題を引き起こした。600トンの水雷艇に駆逐艦並みの重武装を施した千鳥型水雷艇の友鶴が荒天下で転覆し、さらに演習中の第四艦隊が台風に突っ込んだ結果、特型駆逐艦、最上型巡洋艦など小艦巨砲主義のもとに建造された艦艇が船体切断や船体の歪みや亀裂が生じるなど大損害を受けた。
 
これには海軍は真っ青になった。荒天で損傷を受けてしまうような艦艇では戦争などできないと。そこで軍縮条約下で建造された全艦艇が見直され、船体強度確保のための補強工事が行われ、武装が一部撤去され、復元性の確保を行った。またこれ以降の艦艇は電気溶接をやめ、リベット建造に戻ることになった。これは建造日数やコスト、排水量に影響を与えることになったが、これらの対策の結果日本海軍の艦艇は荒天時にも十分な復元性と艦体強度を有し、以後は二度と荒天下で船体を損傷するなどという事故は起こらなかったという。
 
太平洋戦争では神風は吹かなかったというが、太平洋の大波に関する対策を施していなかったアメリカ海軍艦艇は、1944年12月にフィリピン沖で台風に遭遇し、駆逐艦3隻が転覆、その他にも多くの損傷艦艇を生じるなど大損害を受け、沖縄戦でも荒波による損傷事故を多発させたという。
 
国際条約と財布の中身に縛られて小艦巨砲主義に走り、大きな代償を支払った帝国海軍だが、その後、多数の艦が気象観測を行なったことにより、台風の構造を知る上で貴重なデータが得られ、戦後の台風研究に大いに役立ったという。
 
また、拙劣だった電気溶接もその後、改良され、構造的に重要でない部分には広範囲に取り入れられ、戦時標準船や松型駆逐艦、海防艦の建造に貢献したという。ちなみにリベット止めは衝撃に弱く、日本の軍艦の“打たれ弱さ”にも影響したようだ。被弾被爆の際、リベット止めはミシン目のように並んだビス穴が連続的に割れて被害を拡大するとともにリベットが飛び散って乗組員を殺傷したという。
 
こうして国際条約と海軍の懐具合で一時は幅を利かせた海軍の小艦巨砲主義だったが、脆くも台風に打ち砕かれた。しかし、それを押し隠して不備なところは大和魂で補えなどと徹底した精神主義に走らずに徹底した対策によりその後二度と同様の被害を被らなかったことやそれ以後の建艦技術に少なからず貢献したことにはやや救いを覚える。
 
ちなみに小艦巨砲の極致は大和型戦艦だったというと違和感を覚えるだろうが、あの戦艦は18インチ砲を装備した戦艦としては極めてコンパクトに造られていたという。艦形を極小化し、排水量を抑えるために集中防御を採用、速力も27ノットに抑えるなど小型化と建造予算の圧縮に意を砕いたという。帝国海軍の建造思想は大艦巨砲だったと言われるが、実は財布の中を気にしながらの小艦巨砲主義だったようだ。
 
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