帝国陸軍には様々な問題があった。兵器が旧式、火力が弱い、機動力がない、装甲防御力などはほとんど皆無と言ってもいいほどだっただろう。そうした様々な問題の中で極めて遅れていたのが、兵站補給だったのではないか。
第二次世界大戦当時、自動車輸による輸送能力があったのはアメリカ陸軍やその車輌を供与された同盟国だけで、機甲師団が有名なドイツ国防軍も馬匹輸送の方が多かったようだから、ほとんどモータリゼーションが発達していなかった日本ではやむを得ないのかも知れいないが、やはり近代陸軍としては正面戦力とともに輸送能力が戦力発揮の要点だった。
帝国陸軍は歩兵の移動は徒歩、輸送手段は馬による運搬が主力だった。その輜重車、いわゆる馬が引く荷車だが、明治の後期に開発された三六式輜重車、三九式輜重車などが日中戦争当時まで使用されていたという。二頭立ての輜重車も研究されたらしいが、一部の使用に止まり、主力は敗戦まで馬が1頭で引く三九式輜重車であったという。これでは戦国時代の軍隊とあまり変わらない。
自動車輸送については、明治の末期から研究調査が始められ、大正末期には陸軍自動車学校が設置されたと言うが、関東軍などではそれなりに活躍したようだが、地形による制限を受けるという理由で自動車の使用を抑制し、自動車を使用するために道路を建設・改修するという概念を欠いていたらしい。織田信長などは経済活動や軍隊の移動のために道路や橋梁を整備したというから帝国陸軍は織田軍団よりも思想的に遅れていたようだ。
モータリゼーションが未発達だった当時の日本では自動車運転免許の取得者が非常に少なく、陸軍に入って初めて自動車に触れる者が多かったなどという今からすれば考えられないような時代だったから仕方がないのかもしれないが、輸送補給と言う意識も低かったようだ。兵站輸送部隊は、「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち 焼いた魚が泳ぎだし 絵に描くダルマにゃ手足出て 電信柱に花が咲く」などと軽蔑の対象になることもあったという。
輜重輸送部隊は単純機械的労働に従事する軍夫・雑卒だったようだが、それを監督する下士官はともかく、将校は身体の故障から第一線に服することが困難になった者が転科したり、士官学校での成績が低かったり、素行に問題のあった者が振り分けられることが多く、海軍の暗号・情報将校と同様に冷遇されていたという。また、輜重兵科は陸軍大学への入校にも制限があったようで、この辺りは海軍の兵科将校・機関科将校の関係と似ているようだ。
結局、兵站・補給軽視の思想は総力戦を戦い抜かなくてはならなくなった太平洋戦争で多くの悲劇を生んだ。攻勢終末点を超えて侵攻したソロモン・ニューギニアなどは海軍の補給能力などの問題もあり、やむを得ないところもあっただろうが、インパール作戦などは、国内の移動に例えれば、金沢、軽井沢、甲府、小田原付近から中部山岳を超えて前進する距離に相当するという。それを徒歩と牛馬で物資を搬送するなどおよそ近代戦の常識からかけ離れている。
当時の第15軍が保有していた輸送力は、自動車輜重23個中隊、駄馬輜重12個中隊だったようだが、その輸送力は損耗や稼働率の低下を無視しても、5万7千トンキロ程度であったのに、実際に必要とされる補給量は第15軍全体で56万トンキロと10倍程度でそれだけを考えても小規模の特殊部隊などでかく乱戦闘でもするのならともかく、軍団規模の部隊が侵攻できるようなものではなかったという。
これは中でも杜撰極まる作戦計画として現在も非難の対象となっているものだが、ほかの作戦にしても多かれ少なかれだっただろう。帝国陸軍では一度の会戦は約3ヶ月の作戦期間を想定していたようだが、昭和18年頃の必要物資は、一個師団で概ね1万トン、弾薬は重機関銃2,300発、野砲(山砲)2千発、榴弾砲1,500発ほどだったという。総量で1日に111トン、弾薬は野砲で20発強、重機は一日保弾板1枚分30発弱しかない。この程度の補給も満足にできない軍隊がどうして世界を相手に戦争をしようなどと大それたことを考えたのだろうか。
物量で満たされない部分を大和魂で置き換えようとしたのだろうが、精神力と言うのはそれなりの物量があってこその精神力であり、大和魂をいくら発揮しても虫けら1匹殺すことはできない。物量を精神力で置き換えるという危険なレトリックをしなければ近代戦など戦えるような軍隊ではなかったということだろう。
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