どこの国でも陸軍と海軍は仲が悪かったようだが、日本の陸軍と海軍の仲の悪さは並外れていたようだった。日露戦争後、海軍はその主敵を米国として太平洋を向いていたが、陸軍はソ連を主敵として大陸を睨んでいた。海軍が石油を求めて南へ向かおうとすれば陸軍は大陸を北へと向かった。
 
陸軍は政治に頻繁に干渉しては国政を牛耳ろうとしたが、海軍はそれを苦々しい思いで見ていたようだ。陸軍は平時でもそれなりの大所帯を抱え全国に根を張っていたが、海軍は船乗り気質なのか陸軍のような全国に跨るピラミッド型の強固な組織はなかったようだ。
 
そんな陸軍と海軍は装備も何から何まで自前で揃えようとし、共通化などと言うことは欠片も考えなかったようだ。有名なのがドイツのDB601を国産化する時に陸軍と海軍は別々にライセンス料を支払い、それぞれ川崎と愛知に国産化をさせた。これを聞いたヒットラーは、「日本の陸軍と海軍は戦争をしているのか」と笑ったと言う。
 
そんな陸軍と海軍だから機銃も口径が同じでも微妙に異なったり、弾薬もリンクの形式が異なったり薬莢の長さが異なったりして同口径でもお互いに弾薬を融通し合うことはできなかったと言う。高射砲も陸軍の呼称で海軍は高角砲と呼び、機関銃も陸軍は20mm以上の口径のものは砲と言っていたが、海軍はすべて機銃で済ませていた。
 
当時は今のように工業規格などと言うものはなかったので製品ごとに部品の規格が異なるなど著しく生産性を阻害していたようだが、その上に陸軍と海軍でそれぞれ違うものを発注していたのでは製造する側はさぞ大変だったことだろう。
 
こんな具合だから作戦もちぐはぐでガダルカナルも海軍は陸軍には何も言わずに飛行場を作り、米軍が侵攻してきてから何も知らない陸軍は大慌てでそのガダルカナルがどこにあるのかを探したという。また、大誤報となった台湾沖海空戦の幻の戦果も、海軍は海戦後、無傷の米機動部隊を発見したことから戦果の再確認を進め、当初の大戦果が間違っていたことを確認していたが、これを陸軍には伝えず、そのために陸軍はフィリピンでの決戦場をルソンからレイテに変更し、大打撃を受けてしまった。
 
沖縄戦も海軍は最後の決戦と位置付けてその総力を投入したが、陸軍は単に一島嶼戦としか認識していなかったようだ。そのために本土決戦を主張する陸軍と終戦を工作する海軍でまた最後にもめたようだ。海軍は持てる戦力をすべてつぎ込んで徹底的に負けたという実感があったようだが、陸軍はこれまでは各島嶼では補給が途絶えたために負けただけで、その恐れのない本土では負けないという自信と言うか過信があったようだ。そんな陸軍は海軍の補給能力に疑問を持って自前で護衛空母を作ったり潜水艦を作ったりしているほどだ。
 
当時のこの二つの巨大組織がことあるごとに反目し合ったのは体質の違いもあったのだろうが、何よりもそれぞれ組織の保全と言う大命題があったからに他ならない。開戦時、海軍は、「米国と戦っても勝てない」と承知していながらそれを明言すると予算を陸軍に取られることを恐れて、「和戦の決定は総理に一任」と逃げてしまった。終戦間際に陸軍と海軍の統合が叫ばれたが、戦力をほとんど失った海軍は陸軍に飲み込まれるのを何よりも警戒していたという。陸軍の思想は俗に、「陸軍第一、国家は二の次』と言われるが、それは海軍も同じで、その体質は現代の官僚組織にも通じるものがあるのは、それが日本人の国家感ともいうべきものなのかもしれない。
 
戦後の戦犯裁判で陸軍から多くA級戦犯が出たのは政治への関与の度合いが違ったために陸軍の方が戦犯として有罪にし易かったからだと言われている。そのために、「バカな陸軍、ずるい海軍」などと揶揄されたのだろう。当時の海軍にも陸軍張りの政治将校や神がかった精神主義者が多かったようだし、陸軍にも状況を客観的かつ冷静に分析していた軍人も多かったようだ。
 
そんな親の敵同士のような陸海軍が真に協調して装備の共有化を進め、作戦も綿密な連携のもとに戦争に当たったらどうだっただろうか。結果は何度も言うようにやはり負けただろう。技術や生産力と言う国力の差は何を以ても埋め難いものだっただろう。それでも硫黄島では陸海軍が協調して持久戦を戦い、圧倒的な兵力を以て、3日で制圧すると豪語した米軍を1か月も足止めしたように、もう少しまともな戦いが出来た戦場もあったかもしれない。
 
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