烈風と言う戦闘機が終戦間際に開発された。正式には17試艦上戦闘機と言う。戦争には間に合わなかったが零戦の再来と言われた名機だったという。戦局を変えることが出来たのではないかとも言われているほどの幻の名機だったという。
零戦の後継機はかなり早くから計画されていたようだ。9試の96艦戦、12試が零戦、おおむね3年で新型の開発を行っていたので15試くらいで開発が行われていれば昭和18年ころには実戦配備が可能だっただろうが、当時は14試(後の雷電)の開発や零戦の改良などで三菱の技術陣は手一杯で零戦の後継まで手が回らなかったようだ。
しかし、何よりも問題だったのは新型機に装備するエンジンがなかったことだったようだ。零戦と同じ栄では性能の向上など見込めないが、そうかと言って戦闘機に装備できるような高出力のエンジンが日本にはなかった。そんなこんなで延び延びになって17年にようやく試作が始まった。
その際、海軍は当時試作が進んでいた夢のエンジンと言われた中島の誉エンジンを三菱に押しつけた上に零戦並みの空戦性能を要求し、翼面荷重を130㎏/㎡と決定してしまった。零戦52型でさえも150㎏/㎡だというのに装備がかさんで重くなっている新型戦闘機の翼面荷重を130㎏/㎡としたことでこの戦闘機はまるで風神が袋を広げたような大きな翼をもつことになった。三面図を見ると分かるが、この戦闘機は翼幅が14mもあり、異様に大きな翼になっている。この翼の大きさは烈風よりも1トンも自重が重いF6Fと同じだった。
それに加えて誉は公称1990馬力だったのに実際には1300馬力程度しか出ておらず、新型戦闘機は安定性・運動性は良好なものの速度は560キロ程度、上昇性能は艦上攻撃機並という箸にも棒にもかからない代物となってしまった。そして一度は開発中止となったが、三菱側の強い要望でエンジンをハ43という三菱製の2200馬力エンジンに換えたところ高性能を発揮し、急遽量産となったが、終戦までに8機がラインに並んだだけで終わってしまった。
エンジンを換装した烈風は速度が630キロ程度だが、極めて安定した運動性の良い機体だったと言い、テストに従事したパイロットは、「烈風が2000機あれば戦局を変えることが出来る」と絶賛したという。思うように機体を操れる運動性が良い機体というのは職人気質で名人芸を好む日本人に好まれるのだろうか。しかし、この程度の性能ではグラマンF6Fには有利に戦えるかもしれないが、F8Fにはお手上げだろうし、P51にも抗し得なかっただろうから、烈風が2000機あっても戦局が変わるなどと言うことはなかっただろう。
もしも、海軍があまりにも無茶な横槍を入れずに烈風が零戦から順当な発展をしたとするとどうだっただろう。翼面荷重は設計側は150㎏/㎡程度を考えていたというが、実際に出来上がるともう少し高くなって170㎏/㎡程度、これは紫電改や疾風よりも少し軽い値だった。そうすれば翼面積が5㎡ほど小さくなって全幅は12から13メートル程度になっていただろう。当然速度も上がって650キロ程度は出せただろう。ただし、その分運動性はやや犠牲になったかもしれないが、エンジンさえきちんと動けば近代的な艦上戦闘機として登場したことだろう。
この戦闘機が19年の後半に登場したとしてもやはり局地的な戦闘でやや有利な戦いが出来たのではと言う程度で、F6Fで対抗できなければすぐにF8Fを実戦配備しただろうし、20年になればP80シューティングスターというジェット戦闘機が雲霞のように押し寄せてきただろう。
烈風は一目で零戦の直系と分かる優美な線を持った美しい機体でドラム缶に翼をつけたようなF6Fなどの米国の戦闘機とはまるで異なる日本的な戦闘機だったようだ。しかし、その烈風が登場したころは日本と米国の戦闘機の開発レベルは1世代ほども差がついていた。烈風の次の戦闘機は烈風を基にしてさらに洗練させ、2500馬力程度の高出力エンジンを装備した戦闘機だったという。戦闘機は戦う航空機でただきれいなら良いというものでもないようだ。
烈風の機体設計はレシプロ機としてはもうほとんど究極と言ってもいいほど洗練されたものだったという。しかし、烈風の後継機20試艦上戦闘機が世に出る22、3年ころには戦闘機はすべてジェット機となっていてレシプロ戦闘機の時代は終わっていた。もしもこの戦闘機が18年ころに登場していればそれなりに活躍できたのかもしれないが、1年半も遅れてしまった。それが当時の日本の技術の限界だったのだろう。
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