太平洋戦争の分岐点はミッドウエイ開戦と言われているが、実際に日本の戦力を枯渇させ、米国との間に埋めがたい戦力差を生じさせたのはガダルカナルを巡る攻防戦だったようだ。ここで日本は膨大な船舶・航空機と熟練パイロットを失い、以後は坂道を転げ落ちるように敗戦へと転落していった。
日米はガダルカナルに設営された飛行場を巡って死力を尽くして戦い、飛行場を確保し切った米国が以後の戦争の主導権を握ることとなった。日本側は飛行場の米国航空勢力の制圧に苦戦し、遂には戦艦金剛・榛名による飛行場砲撃を実施、大成功を収めるも輸送部隊との連携に失敗し、その後も比叡・霧島による再度の砲撃を実行したが、米国の新型戦艦などに阻止され、2隻の戦艦を失った。
この攻防戦に超戦艦大和・武蔵を投入していたらどうなっただろうか。当時は米軍側がガダルカナルの制空権を握ってはいたが、戦争末期のような圧倒的な航空兵力ではなく大和・武蔵であればその攻撃に耐え得たという見方もある。しかも備砲は世界最大の18インチ砲、威力は金剛型の14インチの比ではない。迎撃する米新戦艦群を排除して飛行場を制圧し得たのではないかと言うのが言い分のようだ。
実際にやってみないと分からないが、大和・武蔵の悲劇的な最期を考えるとこの辺りで使ってもよかったのではないかとも思う。仮に米国のサウスダコタ・ワシントンと撃ち合っても、ほとんど零距離砲戦なので大和・武蔵も被害を受けるだろうが、霧島のようにノックアウトされることはなかったのではないだろうか。また、一航過での一時的な砲撃ではなく、沖に居座って徹底的に砲撃をしたら飛行場を完全に制圧できたのではないだろうか。
当時の提督で実際に同じことを考えた人がいたようだ。それは第二航空戦隊司令官の角田中将だそうだ。角田中将は南太平洋海戦が終了した後に戦艦長門・陸奥・伊勢・日向・山城・扶桑を飛行場砲撃に投入しろと言い張ったようだ。当時、戦場に進出可能な空母は隼鷹1隻しかなかったそうだが、角田中将は、「隼鷹をガダルカナルに投入して制空を行うので戦艦群を飛行場沖に居座らせて徹底的に飛行場を砲撃させろ」と連合艦隊司令部に迫ったそうだ。
それに対する連合艦隊司令部の回答は、「そうしたいのは山々だが、実は戦艦を動かす油がない」というものだったそうだ。これにはさすがの闘将角田中将も意気消沈して引き下がったそうだ。仮に大和を始めとする専科脱隊を投入して飛行場の制圧に成功し、奪還したとしても半年程度で米軍に再奪還されただろう。
日本は真珠湾攻撃以来、戦闘に勝利しても引き足がきわめて速く戦果を拡大することにほとんどの場合失敗してきた。これは戦術思想にも問題があったようだが、それよりも重巡洋艦以上の艦長は艦を失うことのないよう厳しく釘を刺されていたという。そのために一定の戦果を挙げるとさっさと引き上げて兵站や製造設備の破壊を怠っていたようだ。
しかし、持っている装備を使ってしまえばそれまでの貧乏国では巨大な生産の応力を背後に備えていた米国にはどう戦っても抗しようもなかったことは歴然とした事実だろう。仮に大和を始めとする海軍力をすべて投入してガダルカナルで米軍の反攻を押し止めたとしてもそれは一時のことに過ぎず、結局は物量に圧倒され、敗戦を喫していたことはどうにもしようのない事実だろう。
日本ブログ村へ(↓)