「以前に自衛隊の特殊部隊にいる人から聞きました。『刃物は飛び込まれなければ怖くない。だから刃物を向けられたら懐に飛び込ませないことだ。椅子でも棒でも長いものなら何でも良いから正面に構えて刃物を払いのけろ。その場合、振り回すと隙ができて飛び込まれるから突き一本で行け。相手に隙ができたら胸をめがけて思いきり突きを入れろ。』そう言われたのを思い出したんです。」
「自衛隊の特殊部隊、・・・。お付き合いでもしていたのかな、自衛隊の特殊部隊の人と。」
社長は何だか呆れたようにそう言った。お付き合いも何もその自衛隊の人と知り合った時、僕は男だったんだから付き合いようもないだろう。その人は以前に翻訳の仕事で知り合った自衛隊の幹部だったが、レンジャー資格を持った猛者でなかなか面白い人だった。
「いえ、たまたま知り合った人です。恋人とかそういう人じゃありません。女性も自分の身くらいは守れないといけないと言ってそんなことを教えてくれたんです。まさか実際に使うことはないと思って聞き流していましたが、覚えておいてよかったと思います。」
「まあ、確かに良かったんだろうけど、そういうことを使うことのないように振舞って欲しいね。」
そんなことを話しながら車は夜道をすいすいと走って金融王の家に着いた。
「じゃあ、お大事に。明日は無理をして出勤する必要はないので自宅で静養してくれ。」
社長はそう言って僕たちを送り出した。自分が起こした問題でしかもこれしきの怪我で会社を休んでは申し訳が立たないので僕は何が何でも出勤するつもりでいた。
「ご厚意には感謝しますが、こんなのはひっかき傷に毛が生えたようなものです。ご心配は無用です。明日は必ず出勤します。」
僕がそう言うと社長は予想通りといった笑顔を浮かべて、「まあ、無理しないように。じゃあ。」と言って走り去った。
社長を見送ってから僕たちは門の方に歩き出したが、ひっかき傷に毛が生えたような傷は結構ずきずきと痛かった。それでも足を引きずるのはためらわれたので出来るだけ普通に歩いた。女土方は僕のそばにはいてくれたが何も言わずに黙っていた。部屋に入るとクレヨンが走り寄ってきた。
「よかった、無事に戻ってくれて。」
クレヨンはそういうと僕に抱きついた。そのクレヨンを押し戻してソファに腰を下ろした。
「ねえ、大丈夫、怖くなかった。怪我は痛くないの。」
クレヨンは僕にまとわりついてあれこれ尋ねた。このサルにしてみればそれなりに心配してくれているんだろうが、僕はそっとしておいてほしかった。それに僕の体の奥の方である感情が、感情というよりも本能と言った方がいいかもしれないが、頭をもたげ始めていた。
「大丈夫よ、心配かけてごめんね。体を洗いたいからちょっと離れてくれる。」
僕はゆっくりと立ち上がって着ているものを脱ぎ始めた。
「お風呂なんか入って大丈夫なの。」
クレヨンがまた余計なことを言い始めた。
「大丈夫よ、シャワーなら。防水パッチで傷を覆っているから。医者も湯船に浸からなければ大丈夫と言っていたわ。」
僕は血の付いたカーゴパンツを脱ぐとゴミかごに放り込んだ。さすがに洗って使おうとは思わなかった。そしてバスタオルを引っ張り出すと下着と一緒に手に持ってシャワー室に入った。裸になると手足の大きなパッチが目に入った。その周りには血液や消毒液がこびりついていた。どうもあちこち傷が増えていく。戦国武将ならそれも名誉かも知れないが、女には何とも厄介な痕跡になりそうだった。
手早く体と髪を洗うとさっさとシャワー室を出た。元々男の時から長湯はしない方だったのでそれはこの体を引き継いでからも変わらなかった。部屋に戻ると相変わらずクレヨンと女土方がソファに座って僕を待っていた。
体を洗ってさっぱりすると空腹なのに気が付いた。そういえばもうずいぶんと遅い時間なのに食事をしていなかった。お手伝いに電話すると用意するというので食堂に下りて行った。何時もの定食風の食事がすぐに運ばれてきた。今日はとんかつ定食だった。僕は出された食事に食らいついた。
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