参院で問責決議が可決されたのを受け、菅直人政権の“弱み”となっている仙谷由人官房長官が、決議に法的拘束力がないことを盾に、「内閣の要」の座に居座り続けている。だが、民主党は野党時代、問責決議をフル活用し、自民党政権を揺さぶり続けた過去がある。仙谷氏は7日、同僚議員がその当時、「法的拘束力がある」としてきた見解を訂正し、批判の矛先が自身に向く「ブーメラン効果」を避けるのに“必死”となった。

平成20年6月、福田康夫首相(当時)が問責決議を受けた際、民主党の鳩山由紀夫幹事長(同)は「衆院における不信任決議案可決と同じ意味を持つ」と発言した。仙谷氏は7日の記者会見でこの発言に対する見解を求められると、あっさり覆した。

 「そういうことを民主党が言っていたとすれば、憲法解釈を過剰に政治論でまぶしすぎているのではないか。訂正すべきだ」

仙谷氏は、内閣改造で交代する公算が大きいが、「ねじれ国会」下で問責により辞任する前例を作れば、政権運営が立ち行かなくなるのは確実。このため、通常国会での審議拒否を突き付けて辞任を迫る野党側を批判するとともに、報道機関に対しても、「各社の論説の皆さんには審議拒否について自らの立場をはっきりさせてほしい」と難癖を付けた。

昨年11月に馬淵澄夫国土交通相とともに問責決議を受けて以降、仙谷氏は「問責決議には法的拘束力はない」と言い続けてきた。憲法の規定に基づき可決後は、衆院解散か総辞職を行わなければならない内閣不信任決議案との違いを強調することで、自発的辞任を拒んできたのだ。

ただ、問責決議の法的根拠をめぐっては、自民党の伊吹文明元幹事長が昨年12月、国会の首相指名権を理由に「法的根拠がないとの説は誤りだ。憲法67条(による首相指名)を前提に行う決議である」との見解を発表している。

問責決議で政権運営を揺さぶる戦略は野党時代の民主党が好んで使ってきた。

平成10年の「ねじれ国会」下では、防衛庁背任・証拠隠滅事件で自民党の額賀福志郎防衛庁長官(当時)に提出し、同調した野党の公明党とともに可決。その1カ月後、額賀氏は辞任に追いやられた。この「問責作戦」を皮切りに、民主党は福田康夫、麻生太郎両元首相にも同様の手法をとって、総辞職や衆院解散につなげた。

首相も野党時代は問責決議を受けた首相や閣僚に「即刻辞任すべきだ」などと迫っていた。ところが、内閣改造で仙谷氏の責任をうやむやにしようとしており、都合の悪い過去は忘れようとしている「ご都合主義」が見え隠れする。

本当に権力にしがみつくことしか考えていないろくでなし政権だ。こうなるとまだ自民党政権の方が素直で政権担当責任というものを理解していたように思える。権力を担当する者はその責任を負わなければならない。言を弄して責任を回避することを許せば、何でもやり放題になってしまう。それでは独裁政治と何ら変わるところはない。
 
メディアも自民党政権時代はそういうことをことさらに取り上げて騒ぎ立てたが、民主党政権に対してはどうも追及の手が緩いように思える。政権を担当する者のこのようなご都合主義はもっと追及されてしかるべきだろう。そうでないと民主主義が崩壊してしまうし、何よりも国を危うくする。
 
国家は政権担当者のものではない。この国に籍を置き、生活する国民すべてのものだ。国政を担当する権力は、この国を良い国にして欲しいと願う国民から負託されたものだ。それを自分の都合で右へ左へと身をかわして好き勝手に解釈し、運用され、責任も取らないということは、国家を私するも同然だろう。それを民主党と菅政権は何と考えるのだろう。国家と国民は一部の政党人の権力欲を充足させるために存在しているわけではない。
 
自らが犯した誤りに対してはその責任をしっかり取る。政権担当能力がないのならそれを認めて下野し、さらに能力を高めて次の機会を待つ。それが民主的政党のあるべき姿だろう。そんなことさえ理解しようとしない政党には一刻も早く政権の座から降りてもらいたい。
 
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