今年も終戦記念日が巡ってきた。やはりメディアは、変らぬ一本調子で軍部が悪いの一点張りのようだ。昭和19年の南東海地震を軍部が隠蔽したこと、耐震構造を無視してレンガ造りの製糸工場の柱を切り取って航空機の翼を作っていたことが被害を大きくしたことなどを非難していた。しかし、現代の耐震構造理論を基準に当時のことを言ってみても何の意味もないことだろうし、また、構造が弱くなることは分かっていても、国家が崩壊に瀕した状態ではそうせざるを得ないのではないだろうか。
 
確かに当時の軍部は、その武力を背景に政治に介入し過ぎたかも知れない。また、自身の利益のために国家を崩壊の危機に導いたのかも知れない。その責任は限りなく大きいのだろう。しかし、当時の日本は武力を背景に国家の繁栄を図ったのではなかったのか。そうであれば戦争を始めた責任は軍部だけにあるとは言えないだろう。当時の政治家にも、経済界にも、そして国民にもその立場に応じてすべて責任があるのだろう。
 
また、アジアの既得権益を守ろうとした欧州の各国、そしてアジアに新たな権益を求めようとして、日本が欧米に戦端を開かざるを得ないように仕向けた米国にも当然責任があるのだろう。まあどれも何れが菖蒲、杜若、同じ穴の狢、海千山千の類だろう。戦争にコテンパンに負けた日本の軍部はその責任をすべて背負わざるを得なくなり、また、日本人自身も、その軍部にすべての責任を負わせることで自身の責任を逃れたのだから、なかなか強かなのかも知れないが。
 
総じて日本人は自ら責任を負うことを極端に嫌う国民のようだ。具体的に責任を負わせる対象がある時はそこに責任を押し付ける。具体的なものがない時は、社会や世の中のせいにする。我々とは異なる社会や世の中と言う存在があるのかどうか、甚だ疑問ではあるところだが、とにかくそう言うところに責任を負担させたがる。
 
戦後は、鬼畜と罵っていた米国から入って来た民主主義にあっという間になびいて、それまで長い間守ってきたものを取捨選択もなしにすべて捨て去り、その民主主義に国家の命運をかけたが、経済的には豊にはなったものの、不満があれば何の関係もない他人を殺傷したり、子供に拷問のような暴行をして殺してしまったり、80歳を超える老人をどこに行ったのかも知らないと放置してしまったり、自分が遊びたいからと幼い子供を部屋に閉じ込めて餓死させてしまったり、そんな人間とも言えないような魑魅魍魎が跳梁跋扈する世の中を作ってしまったが、それを自分達の責任とは言わずに、それはきっと社会が悪いと言うのだろう。その社会と言うのは我々自身だろうと思うのだが、もしかしたら、別の「社会」と言う我々とは全く関係のない何かがあるのかもしれないが、・・・。
 
後藤又兵衛という武将は、大阪夏の陣に際して、徳川家康から、「播磨の国を与えるから味方をしろ」と誘われた時に、「身に余る光栄ではあるが、」と前置きをしておいて、「碌を食んでいる豊臣が傾いたからと言って、日の出の勢いの徳川に鞍替えしたのでは、武士の本意が立たない」と言って、豊臣のために戦って戦死している。また、真田幸村は、同じように、徳川家康から、「信濃一国を与えるから味方をしろ」と誘われると、「一旦約束をしたと言う事実は限りなく重い。日本を半分やると言ってもそれを翻すことは出来ない」と言って、これも豊臣のために戦って戦死している。
 
その末裔の日本人は一体どうしてしまったのかと思うが、一国の首相も、いい加減なことを言いまくって、旗色が悪くなって選挙に負けそうになると、責任も取らずに身を引いて、今度は陰であれこれ言いたい放題言いまくっているような国だから、国民が多少無責任でも、その程度はやむを得ないのかもしれない。永く歴史上に名を残す名将の心意気をそのまま真似ることは出来ないだろうが、せめて、自身の小さな義務と責任くらいはきちんと果たせるように心して生きて行きたいと思う。そして時代の大きな流れに翻弄されて死んで行かなければならなかった人たちの、それは戦犯として今も忌避されている人も含めての話だが、冥福を祈りたい。
 
幕末に、清水の沖合いで幕府の軍艦が難破して、大勢の乗組員が死んだ時に、打ち上げられた死体を官軍の仕置きを恐れて誰も手をつけようとせずに放置していたが、清水の次郎長は、「人間、死ねばすべて仏様だ」と言って幕府軍艦乗組員の死体を葬ったと言う。これも古き良き日本人の心だろう。
 
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