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 大正11年(1922年)1月10日に大隈が没するとまもなく、大隈重信を記念する事業が計画され、かれの悲願であった大講堂を建設することになりました。

 【大講堂は地上3階建ての総座席数1435席。小講堂は地下1階の382席。正面左には7階規模の時計塔をもち、その高さ125尺(約38メートル)は、大隈が生前に唱えていた「人生125歳説」にちなんでいます。

 塔上の鐘は、米国ボルチモア市のマクシェイン社からはるばるパナマ運河を越えて運ばれました。大小4つの鐘でハーモニーさせる方法は日本では初めてのもので、一日六回ウエストミンスター寺院のそれと同じハーモニーを奏で、早稲田の街に時を告げています。

 また、講堂に入ったら、天井を見上げて下さい。宇宙を表現している楕円形の採光窓があります。太陽と月と9つの星をあしらった太陽系を表し、講堂の内と外との「世界の融和」を象徴しています。

 関東大震災の影響もあり、計画から約5年を経て、昭和2年(1927年)10月20日、大隈講堂開館記念式典が行われ、落成いたしました。

 1999年4月、東京の歴史・文化を象徴する建物を守る目的で都景観条例に基づき、「東京都歴史的建造物」第1号に2号館(旧図書館)とともに選定されました。】

うーん、そうだったのか。外からはずい分見たけど中に入ったのはほんの数回しかなかったから良く分からなかったが、少なくとも演劇博物館とともに大学のシンボルだったことは間違いない。あの建物からずい分大勢の学生が社会に巣立って行ったのだろう。

後から考えると今の自分の原点は大学だったのだろう。大学に学んだからこそ高等教育が自由でおおらかでしなやかでそして強かなものだということを理解することが出来たのだろう。

でもそれが分かったのは大学を出てずい分時が経ってからだったが大学で学問の雰囲気に触れることが出来たからこその賜物だと思っている。

一生のうちの数年くらい何ものにも囚われずに勉強をしてみるのも決して悪いことではないように思う。だから他のことをするのもいいのだろうが囚われない勉強というのをしてみるのも悪くないかも知れない。あまり報われることの少ない世の中だが学問は決して裏切ったりはしないから。



相馬御風 作詞  東儀鉄笛 作曲


一、
都の西北 早稲田の森に
聳ゆる甍は われらが母校
われらが日ごろの 抱負を知るや
進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想
かがやくわれらが 行手を見よや
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ

二、
東西古今の 文化のうしほ
一つに渦巻く 大島国の
大なる使命を 担ひて立てる
われらが行手は 窮り知らず
やがても久遠の 理想の影は
あまねく天下に 輝き布かん
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ

三、
あれ見よかしこの 常磐の森は
心のふるさと われらが母校
集り散じて 人は変れど
仰ぐは同じき 理想の光
いざ声そろへて 空もとどろに
われらが母校の 名をばたたへん
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ


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