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今年も年末が近づいて忠臣蔵の季節になった。この時代劇もずい分長い間日本人に愛されて来た超人気ドラマだろう。昔からずい分いろいろな忠臣蔵が作られ最近でも数年に一回くらいは新しい忠臣蔵が生まれている。

今一般に広く認知されている忠臣蔵は仮名手本忠臣蔵という江戸時代に上演された歌舞伎の忠臣蔵でそのためか登場人物は善悪がかなり強調されていて誰にも受け入れやすい理解され易い話になっている。

物語も実際にはなかっただろう見せ場がずい分作られて山場が次々と現れて見入っているうちに最後の討ち入りに繋がっていくテンポの良い話になっている。当時の急速な貨幣経済の発達による社会の歪みや将軍や側近による独裁政治に対する不満や反発がこの物語を作り出したのかも知れない。

実際には浅野側にも吉良側にもいろいろな事情があって複雑な人間模様が交錯していたのだろう。実際には忠臣蔵の真相はほとんど伝わっていないようだ。中心的な関係者が何も語らずに皆死んでしまったこともあるのだろうがあるいは恣意的に伝えていないのかも知れない。

原因は遺恨などと伝えられているが当時の殿様など名君と言ってもプライドばかりが高く我侭な人種だったのだろう。生まれた時から持ち上げられて育っているのだからそれも仕方がないかも知れない。

浅野内匠守にしても勅使饗応役の礼式を吉良に指南してもらう立場だったのだろうが、あまり神経質にならず堂々としていれば良かったのだろう。

饗応に不始末があれば責任は指南役にも及ぶのだろうから吉良にしても知らん顔は出来なかっただろう。今日一日の辛抱などと言われてもそれも出来ないほどの遺恨とは何があったのだろう。

浅野内匠守は痞(つかえ)という持病があったという。今で言えば動悸と情緒不安定とでもいうのだろうか。当時は世話になる人に現金を送ることは当たり前のこととして社会で受け入れられていたようだから金で済むことなら金を掴ませれば良かったのだろうと思うが大石蔵之助もそんな考えだったと言われている。

浅野が吉良に指南料となっていた賄賂を支払わなかったとか赤穂の製塩方法の開示でもめごとがあったとも言われているが実際に内容どころかもめごとがあったのかどうかも分かってはいないようだ。

非生産的な階級で家という組織に支えられてその生を繋いでいた特権階級の武士の統領が5万3千石の大名家と300人の家臣を「武士の面目」のために棒に振った内匠守もずい分我侭なように思うがそれが武門のしきたりだったのだろうがそのために生存権を奪われた家臣にしてみればずい分と迷惑なことだっただろう。

当時の武士階級は家を命よりも大切に守っていたがそれは家がそのまま自身や家族の生存を保障するものだったからだろう。浪人してしまえば仕官の道はほとんどなく手に職もない武士には生きる術がなかったのだから。

この頃の武士というのは戦国時代が終わって貨幣経済が発達し、非生産的な武士階級は財力に物を言わせて力をつけてきた町人に金で縛られ始めた時期でもあり武士道というのは実利に対してその対極の精神論に特化して行く。それも自分たちを崇高な理想を抱いた特権階級として位置付け生活の基盤である家を守るための方策だったのかも知れない。

もしも武士道というものがもう少し合理性や実利を取り入れたものに変わっていたのならその後の武士の立場も徳川幕府も日本という国も変わったかも知れない。面目にすべてをかけるような極度な精神性は如何にも現実的ではないように思う。

武士道はともかく忠臣蔵を貫く概念は「義」という概念だろう。「義」とは本分と責任と面目を併せたような概念だろうか。家臣の「義」それを支える周囲の「義」吉良を守ろうとする武士の「義」吉良の実子が継いだ上杉家を守ろうとする家臣の「義」、様々な義が鬩ぎ合いぶつかり合う。

どれもそれなりに理由があり正しいものでそしてそれぞれの立場で命をかけてその「義」を貫こうとする。「義」を貫き通そうとするその一途な姿がこの物語が時代を超えて愛される理由だろうか。

武士道というのは存在を脅かされることがなくなった武士がその存在を顕示するために作り出した実体の乏しい精神論だと言う人があるがそれも肯けるように思う。

しかし「義」の概念だけは今の世の中でこれを学ばなくてはいけない人たちが大勢いるように思えてならない。特にどこぞの国会の政治家などはいの一番にこの「義」の概念を学ぶべきだろう。

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