これは夏目漱石が掲げた文学に対する大命題だが、文豪の大命題に張り合っても意味もないので自分なりの文学、この場合は散文、つまり小説などのことなのだが、についての自分なりの定義と言ったものを披露しておきたい。
散文を芸術に高めるためには、
○ 芸術性
というものが必要だろう。それは内容も当然のことだが、文体、つまり形式に芸術性が必要だということだ。文章、あるいは文体に芸術性を持たせるのはなかなか難しい。
次に必要なのは、
○ 主題
つまり作品を通して読む者に訴えかけるものがあること。そしてそれが形而上の主題であること。これもなかなか難しい。何かを書く時には意味をなさないものを書くものはいないが、それが高度に精神的な主題であるということはこれもかなり高度な要求だ。
そして最も難しいのが、
○ 普遍性
というものだろう。これは誰がその作品を読んでも心を打つものがあるというだけでなく例えばシェークスピアの作品群のように時代を超えて何百年を経ても変わらずに人の心を捉えて離さない魅力を持っているということだ。こうなるともう手も足も出ないような気さえしてくるが、まああまり気張らずに思うこと、書きたいことを書けば良いのではないか。
夏目漱石も自然に書くのがいいという意味のことを言っている。漱石に言わせるとドストエフスキーなどは「よおし、見ていろ。大文豪の俺様が一大芸術作品を書いて見せてやる。」と言った調子で己が前に出過ぎだと言う。それに比べるとシェークスピアなどは、
「自分が戯曲を書けばお客が喜ぶ、お客が喜べば劇場が儲かって自分に金が入る、そうすれば皆が幸せになる。」
などという具合に作品を書き続けていたらしい。もっとも第3期以降の作品からは意図的に人間心理の深層を抉り出そうとした作品が多く、淡々と気楽に筆を走らせたというような様子は窺えないが。
またジェーン・オースティンなどは本当にイギリスの地方の中流階級の生活を淡々と書き綴ってその中に極めて深い人間性の一端を表現して見せた天才作家だ。彼女には何の気負いもない、ただ登場人物が淡々と日々の生活を重ねる単調なドラマを書き綴っただけだが、その人間描写の奥深さには感服してしまう。漱石も英文学の中では彼女の作品を極めて高く評価しているようだ。
まあそんなにレベルの高いはなしではなくお遊びの世界での作品たちなのだから自分が思うことを書きたいように綴れば良いのだろうと信じている。
今掲載中の「頂を越えて」はもうずい分前に書いたものを若干手直したものだ。「雨宿り」も同じ頃に書いたもので今の自分の思うところとは少し違うところがあるかも知れない。
遊び半分に書いてみて最も気に入った作品になったのは「あり得ないことが、」だった。これも最初にいたずら半分に書き始めたが、終わらせ方を思いつかなくてずい分長い間放置してしまったのだが、ある時、「書いていれば何とかなるだろう。」と開き直って再開したら自分自身が面白くなってあんなに長い話になってしまった。
機会があったらまた第2部を書きたいと思うが、まだまだ機が熟さないのでもう少し放って置こうと思う。
最後に今書き始めた作品があるのだが、これも思いが至らずに中途になっている。そろそろ掲載作品もネタ切れになるのでがんばって書き始めないといけないとは思うが、これもあまり気負ってはいけないのかも知れない。
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