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「何故ってそれは私がそう信じているからです。神は何時でも自分の側にいると信じていれば神は何時も私の側にいてくれます。以前、美年ともそんなことを話し合ったことがありました。あなたも美年と同じようにとても頭のいい人だと思います。私と違って色々なことを知っているし考え方がとても理論的だと思います。

 私は他人と議論をするつもりはありません。議論するような知識も教養もありませんから。それに人にはそれぞれその人なりの生き方があると思っています。それをとやかく言うつもりはありませんし、私には他人のことを言えるようなそんな資格なんかありません。

 ただ私はあなたに一つだけ聞きたいことがあります。どんなに聡明な人でもその知識や考え方は絶対ですか。最新の科学は永遠の真理ですか。人が自分の力で生きていくことは大事なことだと思います。でも、あなたは本当に自分独りで生きていけますか。あなたは本当に自分の力だけで生きていると思っていますか。私はそんなに強くなれません。

 だから何か自分の心の拠り所になるものが必要なのです。自分が信じていられるものが必要なのです。だから私は神を信じます。自分がいつも神とともに生きている。そう信じていれば、神は何時も私の側にいてくれます。」

 穏やかに自分の神を語るテリーさんは眩いくらい輝いているように見えました。その姿を見ていると自分の心の中で暗く凍りついた部分が少しずつ解けていくようなほのかに温かい優しさを感じました。

「あなたの言う神とはどんな神なのですか。キリスト教のいう神なのですか。それとも別の神なのですか。」

 それでも私は自分の気持ちを収めることが出来ませんでした。夫の前で女の性をむき出しにすることが出来た女達に激しい嫉妬を感じたように自分が出来ないことを簡単にやって除けるこのテリーという女にもこの時同じ類いの嫉妬を感じていたのかも知れません。

「神はそんなにたくさんはいません。ただ一人、一人というのが適当な言い方なのかどうかは分かりませんが、とにかく一人だけだと思います。この世の中には色々な宗教があってそれぞれ色々な神を信仰していますが、それはその宗教が生まれた時代や場所や背景に合わせて人が考え出したもので、神は一人だけなのだと思います。」

「神があなたを助けてくれるのですか。何かをしてくれるのですか。」

テリーさんはこの片意地な私の質問に嫌な顔一つしないで相変わらず穏やかに答えてくれました。

「神は私にとって心の支えです。現実の世界で神が何かをしてくれるわけではないと思っていますから神に何かを望んだことは一度もありません。神が奇跡を起こして人を救ったり何かを恵んでくれたりなんてそんなことはあり得ないと思っています。

 神はただ私たちを見ていてくれるだけです。でも神は私たちをずっと見ていてくれて私たちと一緒に喜んだり涙を流して悲しんだりしてくれます。そう思うだけで私はとても救われた気持ちになることができるのです。そして自分でも信じられないくらい強く生きることができるのです。」

「秋絵、もうお止めなさいな。」

 テリーさんに向かって私が言葉を口にしかけた時、突然夫の声が聞こえました。夫は起きていて私達の話を聞いていたのです。でも夫に言われなくてももうやめようと思っていました。

 自分の好きな男の前で素直になれないその辛さを紛らわせるために真面目に私を愛してくれていた秋本さんを自分の心の穏やかさを得るために利用するような歪んだ心を持った私にはテリーさんのように澄み切った心を持った人にはとても太刀打ちはできないことが分かったからでした。でも、私にはもうひとつテリーさんに聞きたいことがあったのです。

「ねえ、もうひとつだけ教えて。あなたは『神を信じる。信じれば神は一緒にいて自分を見ていてくれるから穏やかにそして強く生きられる。』そう言った。でも本当にそれだけでいいの。それだけで寂しくはないの。誰かに寄りかかりたい。時には抱き締めてもらいたいってそう思うことはないの。」

 テリーさんは顔を伏せてしばらく何も言わずに何か考えている様子でしたが、すぐにまた穏やかな表情をした顔を私の方を向けました。でもその表情には今までとは違った陰りが差しているのが見て取れました。

「私は自分の親を知りません。小さい頃は路上で生活していました。浮浪児でした。警察に保護されて施設に入り、そこで基礎教育を受けました。その後は色々な仕事をしました。ただ生きていくだけのために。

 施設にいた時、そこに通って来る神父さんから神のことを聞きましたが、私には理解も出来なかったし納得も出来ませんでした。神を信じて敬えば神が幸せにしてくれるなんて。第一、生まれてから幸せだなんて思ったことは一度もありませんでしたから幸せということそれ自体どんなことなのか、私には分かりませんでした。

 施設を出て独りで生きていくようになってからも同じでした。泥の中を転げ回るような生き方をして体中泥だらけになっても、ただその日その日を生きていくのに精一杯で体についた泥を払い落とす余裕もありませんでした。何の知恵も才能もない女が独りで生きていくためには選り好みをしている余裕はありませんでした。

 だから神のことを考えようなんて少しも思いませんでした。ただ簡単にたくさん稼げるからという理由で売春を始めてお金のために男達の前に体を投げ出して、そうして得たお金を今度は誰彼なく相手構わずに投げつけるように使って毎日自分が生きなければいけない時間から逃げるように生活していました。

 そんな生活を続けていたある晩、いつものように体を売ってそのお金で体に纏わりつく男の欲望の臭いを振り払うために遊んで家に帰る途中雨の中で震えている一人の女の子を見つけました。凍るように寒い夜でした。

 私はその子を自分の小さなアパートに連れて帰って一緒に生活するようになりました。それから私は変わり始めました。それまでは自分を汚して稼いだお金も結局投げ捨てるように使ってはなくなってしまいましたが、どんなことでも目的を持つと人って変わるんですね。

 それを機会に私は孤児を連れて来ては、その子達の世話をするようになりました。そうして子供が一人、二人と増え始めて大きな子供が小さい子供の面倒を見るようになり、何の繋がりもなかった私達が徐々に一つの絆で結ばれていくとそこに帰ってきた時私は今まで感じたことのない温かさを感じるようになりました。

 人を守ることも人に守られることも知らずに何時も怯えて他人に牙をむき出しにして威嚇することで自分を守ろうとしていた私が、どんな方法にしても人を守ってあげることができることを知った時、自分自身も子供たちと同じように何かに守られているように感じたのです。

 その時感じたほのかな温かさを、「これが幸せなのかも知れない」と思いました。それがきっかけで私は聖書を読み始めたのです。一体自分が何故生まれて何故生きてきたのか。こんな汚れた自分が何のために生きているのか。

 一体誰が私を守っていてくれるのか。そんなことを考え始めたのです。そして考えた末に神という万物を超越した存在に行き着いたのです。そんなことから神について興味を持つようになりました。神について何でもいいから知りたかったのですが、聖書以外に何を読んだらいいのか分からなかったものですから。

 でも私には結局神が何者なのかそんなことはいくら本を読んでみても分かりませんでした。でも幸せになるのも不幸になるのも自分次第だということは分かりました。自分が穏やかで幸せな生活だと思えば分を弁えている限り人はそれで結構幸せに生きられるんです。自分を愛して人を愛してそして多くを望もうとしなれば貧乏でも結構幸せに生きられるのです。

 どうしても寂しい時、自分は何か大きな力に守られているから生きていられるってそう思うことにしたんです。秋絵さん、あなたは自分の力で生きていると思っているでしょう。でも自分の体でさえ自分では何もしないのにちゃんと動いているところが随分とたくさんあるじゃないですか。心臓だってあなたは一回づつ自分の意思で動かしていますか。

『私達は何か目に見えない大きな力で守られているからこうして生きていくことが出来る。』

 その時私はそう思ったんです。その大きな力が神なんだと。だから私がこうして生きているということは神に守られているからなんだと。私が生きている限り神は私のことを守ってくれているとそう思うことにしたんです。

 そう思ったら淋しいことが淋しくなくなりました。辛いことが辛くなくなりました。それに今私にはたくさんの家族がいます。その家族を支えていかなければいけないんです。たとえ自分が汚れてもあの子達が美しく育ってくれれば私はそれで充分なんです。美年が私達にくれた一〇万ポンドに自分のお金を足して何所かに小さな農園のついた家でも買ってあの子達と一緒に暮らそうと思っています。美年と会えたことに私は心から感謝しています。」