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 成田を離陸してから、飛行機で一〇時間余り。夫は特に体調を崩すこともなく、無事にロンドンのヒースロウ空港に着きました。

 私達はまずホテルに入って秋本さんが紹介してくれた医者と連絡を取り、後日の診察の予約をしておきました。そうしないと夫の点滴の輸液が手に入らなくなってしまうからです。そしてその後で夫はテリーさんと連絡を取りました。

 電話はすぐに繋がったようでした。電話をしている時の夫の顔は、私が見たことのないほど穏やかで輝いていました。テリーさんはその日の夕方、私達が泊まっているホテルに尋ねて来ることになりました。

 夫は特に疲れた様子もなく、点滴のスタンドを自分の横に立てたままソファーに座って寛いでいました。私は当面の生活に必要なものを買いに行こうとしたら夫に止められました。「テリーに頼めば安く揃えてくれるから。」と言うのです。それで私もやることがなくなってしまって、ホテルの売店を覗いたくらいで、後は部屋に入ったままどこにも出かけませんでした。

 私は夫から話を聞いていただけで、テリーさんに会うのはこれが初めてでした。夫があれだけ心を寄せている人とは言っても私には売春婦というイメージが付き纏って、どんな人なのかどうしても自分の頭の中でその姿を纏めることが出来ませんでした。

 約束の時間が近づくにつれて、私は落ち着かなくなってきました。自分の夫を、たとえこんな場合でも、他の女性に委ねることに自分が耐えられるのかどうか、自信がなくなってきたのです。

 夫は私が落ち着かない様子なのを見て取ったらしく、それとなく理由を聞くので、思っていたとおりに答えると夫は少し考え込んでいました。

「女にしてみれば、それが自然なのかも知れない。別にテリーに自分を委ねるって訳じゃないんだけれど。まあ会って話をしてみればいい。君にも何か変化が起こるかもしれないから。」

 夫は特に私に理解を示すでもなくそうかと言って私の意思を捩じ伏せるような言動もなく淡々としていました。

「そろそろ時間だ。ロビーに降りて待とう。」

 夫は点滴のチューブを自分で外すと部屋を出てロビーに向いました。私は夫の後をついて行きましたが、胸が鳴って仕方がありませんでした。

 ロビーに降りた夫はゆっくりと歩きながら辺りを見回してテリーさんを探している様子でしたが、やがて真っ直ぐに方向を定めて歩き始めました。その先には淡い黄色のワンピースを来た日本人から見れば大柄な金髪の女性が立っていて夫の方を見詰めていました。夫はその女性の前で立ち止まって二言、三言言葉を交わした後二人で私の方に向ってゆっくりと歩いて来ました。

 自分の方に近づいてくるその女性の姿を見て私は体が竦んだように動かなくなってしまいました。竦んだという言い方は違っているかも知れません。何だか子供の頃に戻って母親に抱かれている時のように穏やかな温かさに包まれたような気がして体の力が抜けてしまったと言った方が当たっているかも知れません。

 二人は私の前で立ち止まりました。そして夫が私をテリーさんに紹介して、その後で私にテリーさんを紹介してくれました。

 テリーさんは背の高さは一七五センチくらい、肩を少し越すくらいの長めの金髪の女性で美人と言えば確かに美人でした。でも容姿がどうだとか知性がどうだとかそんなことはこの女性に関してはどうでもいいことのように思えました。

 不思議なことにこのテリーという女性を見ていると心の中に染み付いた悪意や邪念といった類のものが溶け出して流れ去ってしまったように穏やかな満ち足りた気持ちになったのです。

 何だか長い間待ち焦がれていた人に会えてすっかりのぼせ上がってしまったようになってしまって英語については夫よりもずっと達者だと自負していた私の口から出た言葉は「初めまして。お会いできて嬉しいです。」という英会話の基本のような言葉だけでした。そして、何より私は、夫を委ねることについて感じていた反発をすっかり忘れてしまっていました。

 テリーさんを伴って部屋に戻ると夫は自分のバッグからあの十五万ポンドの小切手を取り出してテリーさんに渡しました。テリーさんは受け取ってから小切手の額面を一瞥すると「ありがとう。これで何人かの子供達を助けてあげることが出来ます。」と言ってバッグにしまいました。

 普通なら三千万円近いお金を受け渡しするのですからもう少し何かのドラマがあってもいいように思いましたが、どちらもメモ一枚を受け渡しするように簡単に済ませてしまい、夫も何故そんなお金が必要なのかその理由も聞きもしませんでした。

 その後も夫は特にテリーさんと何を話すでもなく新聞を読んで見たり雑誌を手にとったりしながら時を過ごしていました。テリーさんも夫に話しかけるでもなくつかず離れず夫の近くに身を置いて夫の様子を見守っていました。

 こうして夫が亡くなるまで夫と私とテリーさんの奇妙な共同生活が始まったのです。正確に言えば、夫とテリーさんと、そしてオブザーバーの私の三人と言った方がいいのかも知れません。