私はとにかくこれから自分がどうするかということ以外は関心がありませんでした。そしてこんな時も自分のことしか考えられないことに気がついてまた自分を嫌悪しました。
ひとしきり飲み終わって私は秋本さんに風呂を勧め秋本さんがシャワーを使っている間に秋本さんの着替えや寝室の用意をしました。シャワーを終わって出て来た秋本さんは寝室の入り口で立ち止まって部屋の中の様子と後ろに立っていた私の顔を交互に見ながら容易に部屋の中に踏み込もうとはしませんでした。
「どうしたの。早く中で着替えたら。風邪をひくわよ。」
「とうとうここまで来てしまったんだな。」
部屋の中に足を踏み入れる時秋本さんは独り言のようにぽつりと言いました。秋本さんにはこの寝室が禁断の園のように思えたのかも知れませんが、私にはただ秋本さんと泊まる場所が自分の家というだけでそれ以上の特別な感情はありませんでした。
その晩、私は何度も秋本さんに抱かれました。秋本さんがそうしたのではなくて私が秋本さんにそうさせたのです。女をむき出しにして男にしがみついていったのはこの前夫に抱かれた時が初めてではありません。
この時も『女ってこんなに大胆になれるんだ。』と自分でも驚くくらい女をむき出しにして振る舞ウことが出来ました。落ち着いているような振りはしていたものの私はもうほとんど自分が纏った鎧の重さに耐えかねていました。とにかく秋本さんに自分を預けてそして支えてもらいたかったのです。
翌朝、体は消耗し尽くしていたのに心は少しも満たされてはいないのに私は気がつきました。相変わらず頭の中は火花が散って心は揺れ動いていました。秋本さんを送り出した後、独りでシャワーを浴びながらこれからどうしたらいいのか考えましたが、いくら考えようとしても何も浮かんできませんでした。
シャワーから上がって、昨夜の余韻の残るベッドに独り横になって泣けるものなら思い切り泣こうとも思いましたが、自分自身を支えることも出来なければ他人にも頼り切れない自分が惨めで涙を流すことさえ出来ませんでした。
苛立ち紛れにベッドから立ち上がってタオルを思い切り棚に向かって投げつけました。水を含んで重くなったタオルが棚に載せてあった本に当たって積んであった本が崩れて床に散らばりました。それを見ながら投げやりにもう一度ベッドに体を投げ出そうとした時、本の間からはみ出した何枚かの写真が目に止まりました。
近寄って拾い上げてみると例の見栄旅行で撮った写真でした。私はどの写真の中でも本当に楽しそうに笑っていました。そして私の横や後ろで夫がちょっと覚めた表情で、私を見ていました。
『何かに行き詰まって、身動きが取れなくなった時は、そこから抜け出そうと無闇にもがいたりしないで、どうして身動きが出来ないのか、その原因を一つ一つよく見ることだ。解決の糸口は以外に手近なところにあるもんだよ。』
私が仕事で行き詰まって苛立っていた時、夫はそんなことを言いました。その時は負けん気の方が先に立って夫の言うことを素直に聞く気にはならなかったのですが、写真に写った夫の顔がどれも皆同じようなことを言っているように見えたのです。
『感情に任せて動き回っても何も解決はしないよ。落ち着いて自分の心の中をよく見てごらん。何が真実なのかが分かるかもしれないから。山登りもそうだろう。道に迷ったら不安に任せて動き回ってはいけない。
まず煙草でも吸うか、コーヒーでも飲んでから、自分がはっきりと分かるところまで引き返すことだ。秋絵は能力がないわけじゃないのにすぐに取り乱すんだな。良くない癖だよ。』
そんなことでも言いたそうな、夫の涼しげな表情を見つめていると、また腹が立ってきました。
「私がこんなに苦しんでいるのに『イギリスに行って来る。』なんてどういうことなのよ。死ぬのが怖いくせに。私の前で怖いって泣いてごらんなさいよ。本当は怖くて仕方がないくせに。あなたこそ自分に正直になりなさいよ。」
私は夫の写真に向かって大声で叫びました。夫が以前から言っていたことは極々的を射た当たり前のことで少し冷静になって考えれば私にも簡単に理解出来ることでした。実際この時も私は何故自分がこんなに感情的になっているのかその原因は自分なりに把握していました。
結局、私は夫のことが一番好きだったのです。本当は私に夫の素直な気持ちを打ち明けて欲しかったのです。夫が自分を頼ってくれないことよりもこんな時に何の力にもなれない自分が一番腹立たしかったのです。
それから数日は何も手につきませんでした。仕事をしても考えられないようなミスばかりで周りから叱られたり呆れられたり散々でした。
夫を気遣い夫を失うことを恐れる自分と自分の誇りを守ろうとして夫に反発する自分とが頭の中でぶつかり合って火花を散らしていて、それが私の思考力を全く奪ってしまったのです。でもそんな状態も少しづつ時間が経つにつれて治まってきました。もう何度も話したように私にはやはり夫が大切だったのです。
『もしかしたら本当にもう二度と夫には会えないかも知れない。』
そのことを考えると、恐ろしさで身震いがしました。
『私達の関係をこのまま終わらせてはいけないんだ。夫の前で素直になってみよう。少なくとも素直になれるように努力だけはしてみよう。』
それが考え抜いた末の私の結論でした。こんな子供でも簡単に分かってしまうようなことが、私にはここまで追い詰められなければ分からなかったのです。
イギリスから戻って来た夫と会ってからのことはもう夫が話していますし、私もそれなりに自分の気持ちを説明してきましたから省いてしまおうと思います。何度もお話ししてもくどくなるだけですし私も自分の馬鹿さ加減を何度もさらけ出したくはありませんから。もうこれまでで充分だと思います。後は夫とイギリスにいってからのことを話しておきます。