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 部屋の中を満たしている薄あかりを通して秋絵の濡れて光っている大きな眼が僕の方を見つめているのが見えた。相変わらず強そうな目だったが、その目の中には以前と違ってとても悲しそうでいてそれでも少しばかり温かそうな色が浮かんでいた。

 モーニングコールの電話の音が夢と現実が交じり合ったような浅い眠りから僕を解放してくれた。ゆっくりとベッドから起き上がって窓際まで歩いて行くとカーテンを引いた。穏やかに晴れ上がった明るい空が広がっていた。とてもやわらかな優しい朝だった。

「秋絵、起きろよ。いい朝だ。」

秋絵を呼んでしばらくしてからまだ少し眠そうな秋絵の声が聞こえた。

「もう起きたの。良い天気みたいね。これなら予定通り飛びそうね。」

「少しくらい遅れてもいいさ。日本で過ごすのも今日が最後だから。」

「飛行機は十一時だったわね。まだ六時だから随分時間はあるわ。食事は。ルームサービスでいいかしら。」

「食事って何を食べさせてくれるんだ。点滴かな。」

「別に無理しなくてもいいの。何か欲しければと思って。」

 窓際に立って外を向いたままだった僕は秋絵を振り返った。秋絵は上半身を起こしたままベッドの上にいた。

「またジュースと果物でも。そのくらいなら食べられそうだ。」

「分かった。もう少ししたら頼んでおくわ。まだ早すぎるわね。」

 僕は秋絵に向かって頷いてからまた窓の方に向き直った。何時もなら目に突き刺さるように鋭く感じられる朝の光が今日は随分柔らかく優しく辺りに広がっていくように感じた。

「日本が懐かしい」

いきなり秋絵に変なことを聞かれてちょっと答えに窮してしまった。

「あなたのそんな顔、初めて見た。なんだかとても穏やかで、でも、それでいてちょっと寂しそう。」

「いいとか悪いとかじゃなくて随分長く暮らした国だからいろんな思い出はあるさ。だから懐かしいのかも知れない。そんな事を思っていたわけじゃないんだけど。」

 僕は外を向いたまま秋絵に答えた。僕が外を見つめたままだったのは今日の景色から眼を離すのが何だか勿体ないように思えたからだった。

「後悔していない。」

「何を、」

「あなたの人生。」

「僕の人生、」

僕は秋絵の方を振り返った。

「人生って何を。」

「あなたの人生そのもの。後悔していない。」

「後悔なんかしてないよ。ただ、他人には随分迷惑をかけたかもしれないな。」

僕は秋絵にいとも簡単に言い切ってやってから逆に秋絵に同じことを聞き返した。

「秋絵はどうなんだ。後悔してるのか。」

聞かれた秋絵は何度も首を横に振りながら答えた。

「後悔しっぱなし。満足出来たことなんか一度もないわ。何時もああすればよかった、こうすればよかった、そんな思いばかり。今だってあなたのこと悔やんでばかり。もう少し私も気が利いていたらあなたの苦しみを少しは軽くしてあげられたかも知れない。そんなことを考えると自分が情けなくて嫌になってくる。どうしてあなたは後悔しないで生きて行けるの。」

秋絵にそんなことを言われておかしくて笑い出してしまった。

「何だかそれじゃあ僕は考えなしの極楽トンボみたいだな。そりゃあこれまで生きてきた間にやってきたことで反省しなけりゃいけないことはたくさんあると思う。秋絵とのこともそうだと思う。考えれば他にも色々あるだろう。

 自分がやってきたことを勝ち負けで勘定すれば負け数のほうが遥かに多いと思う。けれどその時その時を自分なりに自分がそれでいいと思う方向に精一杯生きてきたと思えるから。これ以上は出来ないくらいにさ。もっともやってきたことすべてがいい生き方だったなんてお世辞にも思えないけど。

 でももう一度生まれて来ても多分同じ生き方をすると思う。もう少しは利口に生きるかも知れないけど。結局人間が変わらなければこんな生き方しか出来ないだろうし、もしも違う生き方をするような人間になっていたらそれは多分僕じゃない別の違う人間なんだろうと思う。自惚れ屋かナルシストなのかな。

 まあやっと自分が何者だったのか分かったような気がするよ。全部じゃないけどね。もっとも分かった時は少しばかり手遅れだったみたいだけど。」

「強い人ね、あなたって。わたしなんかとても適わないわ、あなたには。」

「強いのか、強情なのかそれとも自分を変えるのが怖いのか何だかよく分からないけど。まあ、何とか生きて来られたのも案外人に恵まれていたのかも知れない。秋絵さん、あなたとか。」

「嘘でもそう言って貰えると嬉しい。でも私はあなたにとって恵まれたと言えるような人間じゃないと思う。」

「そんなことはないよ。そう言ったらお互い様だよ。そんなことはこれまで何度も話したじゃないか。僕達はお互いにこんな関わり方しか出来なかった。多分何度一緒になってもきっとこんな関わり方しか出来なかったと思う。」

「もしもこんなことにならなかったら私もあなたもずっと元気で生きていたら私達は・・・」

「きっと別れていただろうな。君は秋本と一緒になってたんじゃないのか。自分でそう言っていたもんな。」

「うん、そうだね。じゃああなたは」

「そうだな。もう結婚なんかしないで何人かの女と適当につき合いながら生きて行くと思うよ。でも、そのうち誰か一人と一緒になるんだろうか。それともその前に、そのうちの誰かに刺されるかなぁ。」

「私達がもっと早く分かり合えることってなかったのかな。」

「さあな、こればかりは何とも言えないな。受け入れるべき運命でもあるし変えることの出来る運命でもあるし。どう思う。」

「分からないわ。こんなことになってみて初めてあなたを一生懸命見ようとした。そうでなかったら変わらなかったかも知れない。」

「それじゃあこれは受け入れるべき運命だったんだ。それにこうなったから少しは分かり合えたんだろう。僕も君のことを杓子定規でなんでも王道を行かなければ気が済まない堅苦しい女だと思っていた。ほんの数日前まで。だからお互い様だね、秋絵。」

「ねえ、最後にもう一つ聞いてもいい。」

口に出してからも秋絵は何だかまだ落ち着かない様子だった。

「何、まだ何かあるのか。」

「秋本さんとのこと、あなた知ってたの?」

「何となくそうじゃないかとは思っていたけど本当のところは分からなかったしあまり興味もなかった。そうしていてくれるならそれはそれで好都合だという気もあったし。僕自身も罪悪感なしに自由に動けるんだから。君達がそうしていてくれれば。」

「何故本当のことが分かったの。」

「あの看護婦、君が怒った若い女。あの子が僕に君と秋本が抱き合ってるのを見たって教えてくれた。ここに来た日の次の朝だったかな。それでその後半分は本気で、そして残りの半分は事実を確かめるつもりで秋本に『君を頼む。』と言ってみたら、あいつ全部白状してしまった。案外正直なもんだよな、医者なんて。」

秋絵は二つ三つ溜め息をついた。

「ねえ、本当のことを言って。私と秋本さんのことを聞いてどう思ったの。怒ったでしょう。」

「自分だって同じことをしてきたんだから怒りはしなかったけど秋絵が浮気なんて浮気じゃなくて本気かも知れないが意外な感じはした。でも考えてみれば自分勝手に好きなことをしてばかりでお前のことを何もかまってやらなかったんだから。

 秋絵だって随分苦しい思いもしていただろうに。それはそれで仕方がないんじゃないかと思ったよ、本当に。ただ相手が秋本っていうのには少し複雑な気もしたけど。でもその方がよかったとも思ったよ。僕が死んだら秋絵のことを心置きなく頼めるから。

 僕が死んだ後、秋絵が秋本と一緒になってくれればいいとそれは本当にそう思っていた。でもうまくいかないもんだよな。ところで本気で怒ったのか。僕と秋本とで秋絵のことを決めようとした時。」

「いきなりあんなことを言われて混乱しちゃった。あんな時は怒ってみせる以外にはないじゃないの。他にどうすればいいの。秋本さんのところに行きますって言うの。でも後から自分なりにいろいろ考えたわ。

 秋本さんと一緒に暮らすことも真剣に考えた。ただ、それにしてもその前に自分なりにやっておかなくてはいけないことがあるんじゃないかってそう思った。あなたとのこと自分なりに結論を出しておかなければって。そうでなければ後できっと後悔するんじゃないかって。だから一生懸命あなたを見ようとした。自分なりにあなたのことを理解しておこうと思って。そして私とあなたの関係も。

 ほんの短い間だったけれど、この数日誰よりもあなたのことを一生懸命に見つめて来た。そして自分の気持ちを偽らずにあなたにぶつけてみた。だから分かったの。私が誰よりも愛しているのはこの人だって。ごめんなさい、分からず屋で。でも最後の最後でもそのことが分かってよかった、本当によかった。」

「じゃあもう後悔はしないよな、秋絵。これは神様が書いた数えきれないシナリオのうちの一つなんだろうけど神様なんだから俺達の知らないことまで知っているだろうしずっと覚えていてくれると思う。そして何でも俺達の本当の気持ちをみんな分かっていてくれるんだろうと思うよ。」

 秋絵は小さく頷いて笑った。その時秋絵がこの運命を受け入れることが出来たのかとうとう最後まで聞いてみる機会がなかった。でもそれから秋絵は二度と自分のしてきたことについてそれを悔やむようなことは言わなくなった。僕がその後意識のあるうちは。つまり生きている間は秋絵が僕達二人の関係について未練がましいことを言うのを聞くことはなかった。

それから数時間後、僕と秋絵は国際線出発ゲートに立って秋本と向かい合っていた。

「気をつけて。何かあったら電話しろよ、都合をつけて必ず行くから。」

「ありがとう。何かあったらまた面倒を掛けるかも知れないけどその時はよろしく。」

 普段と変わらず僕達はごく普通に言葉を交わしてごく普通に別れたが、お互いに相手の表情の中に『これが最後だ。』という気持ちを見て取っていた。

 秋絵は前に進みながら何度か秋本を振り返って小さく手を振っていたが、僕は出国手続きを終えると後を振り返らずにそのまま搭乗ゲートの方に歩いて行った。そして歩きながらこんなことを考えていた。

 僕にとっての『死』は今目の前にあるゲートのように真近に迫っている。人は、人だけでなく生あるものはすべて生まれ出た時から『死』に向かって進み始める。どう生きるかということとどう死ぬかということは一見全く逆のことを意味しているようでいて本当は同じことなのだと僕は思う。

 こうして自分の生の終りを間近に迎えてみれば僕の生きてきた時間はほんのわずかな間だったようにも思えるけれど、今その軌跡を振り返って見れば決してあっという間の出来ごとではなかったように思う。

 あっという間だった。何も出来なかった。それも確かにそのとおりかもしれない。今まで何をしてきたのかここに出して見せてみろと言われたら言われるとおり出して見せるものは何もないかもしれない。でも僕は生きてきた。ここまで確かに生きてきた。

 僕を取り巻いている大きな流れの中で僕は少なくともただ何もかも流れに翻弄されてそれを受け入れることだけに自分の時を費やして来た訳ではないという手応えは残っているのだから、後はその大きな流れに自分を任せてもうしばらくの時を過ごそうと思う。どのみちもうゲートは目の前なのだから。