「別にそんなことはないけれど、でもやっぱり少しばかり複雑な気分だ。」
秋絵は僕の首に掛っていたタオルを取ると僕の髪や体を丁寧に拭いてからパジャマを差し出した。そのパジャマを受け取って身に着けるとそのままベッドに横になった。そして秋絵が持って来た点滴スタンドを押し退けるようにして拒むともう一度秋絵にルームサービスを頼むように言った。そしてしばらくして部屋に運ばれて来た果物やプディングを構わずに口の中に押し込んだ。
「無理はしないで。一体どうしたの。」
秋絵は僕の体を気遣ってか懸命に僕を止めようとしが、それでも僕は数片の果物とプディングを全部食べてしまった。
「点滴もカロリーを数値で比較すれば同じことなんだろうけど実際にものを食べるのとは感覚的に随分違うものだな。何だか力がついたような気がする。ここしばらくは何も口にいれていなかったからな。」
「本当に大丈夫なの。いきなりそんなに食べて。」
秋絵はそれでも心配そうな様子だったがどっちにしても駄目なものは駄目と開き直っていた僕は何とも思わなかった。
"Sometimes,fate must be accepted but sometimes,fate can be changed."
「えっ?」
「まだすべてが決まってしまった訳ではないってことだよ。さあ秋絵、点滴の管を繋いでくれよ。」
僕はベッドに横になると自分で胸を開いた。その胸に挿された管を秋絵はそっと手に取って延ばすと点滴パックの管に繋いでバルブを開けた。
「これで大丈夫と思うけど、何か具合が悪いところがあったらそう言ってね。」
「秋絵。」
僕の声に側を離れようとしていた秋絵はもう一度僕を振り返った。
「どうしたの。何か具合でも悪いの。」
僕は振り返った秋絵の顔をしばらく見つめていた。
「どうしたの、あなた。何かあったの。」
「いや、別に何も。」
何と言い出したらいいのか適当な言葉が見つからずに戸惑ってしまったが、結局思っていたことそのままを言葉にして口に出してしまった。
「嬉しいのか。子供が出来ていたら。」
「不安はあるけどね。」
「君のこれからの時間を束縛するかも知れないのに。仕事もそして君と秋本のことも。二人で新しい生活を始めることも。」
「女ならさっきあなた達の前で捨てたって言ったでしょう。」
秋絵は微笑みながら僕を見た。
「あなたの言うことはよく分かる。でもそれは男の人の考え方。私あの時まさか子供が出来るなんて考えてもみなかった。でもそう感じた時、これって運命だと思った。もしも生まれたら大変かも知れないけどでも一番愛している人の子供を生めることはやっぱり幸せだと思う。それに
“Sometimes, fate must be accepted."
って。そうでしょう。」
「見てみたいな。」
「えっ、」
「男にしても女にしてもどんな子供なのか見てみたい。」
「あなたが、子供を。本当に、」
僕は秋絵の顔を見ながら頷いた。秋絵は僕に少し歪んだ笑顔で答えた。
「私、もう若くはないけど頑張るからきっと見てね。私達の子供。」
少し顔を歪めて潤んだ目をした秋絵に、今度は僕の方が歪んだ笑顔で言葉を返した。
「はは、それは無理だよ。後一年近くも。とても生きてはいられないだろう。」
「“Fate can be changed." 違うの。」
「大きな運命の流れの中で変えられる部分もあると思う。ただ流れの方向それ自体を変えることは神の領域を侵すことになるのかも知れない。」
「運命は親子が巡り合えないことに決まっているの。」
「運命はこの過酷な関係を生きてきた夫婦に本当に子供を授けたのか。」
僕の言葉に秋絵が先に吹き出だした。そして秋絵につられて僕も吹き出してしまった。しばらく二人で笑った後で秋絵が先に口を開いた。
「運命は変えられるとか受け入れなければならないって言われても運命それ自体が一体どんなものなのかそれからして私には分からない。」
「だから今生きているのなら今を精一杯生きるしかないってことなんだろうな。その結果が運命ということなのかそれとも運命を受け入れる側の心構えを作るために精一杯生きるのか、・・・」
ちょっと言葉を切ってから次の文句を考えようとしたところに秋絵が口を挾んだ。
「もういいわ。どっちにしても私達には与えられた時間を精一杯生きるしかないってことね。」
「そうだな、今生きているんだから精一杯生きればいいんだろう。難しく考えるから何のためにどう生きたらいいのか分からなくなってしまうのかも知れない。」
秋絵は少し寂しそうな笑みを浮かべながら一つ大きく溜め息をついた。
「もしも私の体の中にあなたと私の子供がいるんなら何も考えないで一生懸命育てようと思う。本当は子
供ができてるかも知れないってそう思った時色々考えちゃった。
これからの自分のこととか、あなたのこととか、それから子供のこととか。自分独りで育てられるんだろうかとか生まれてきて本当に幸せなんだろうかとかそれからあなたのことを聞かれたら何て答えればいいんだろうとか。
大きくなってあなたのこと聞かれても何も分からないから。これまであなたを理解しようなんて思ったことはほとんどなかった。もっとも別の目的では随分一生懸命あなたを分析しようとはしてきたけどね。
そうして考えていたら今も考えてはいるけれど子供を生んで育てることが怖くなっちゃった。でも、もしも子供が出来ていればそれは私にとって受け入れるべき運命。そして生まれて来た子供にとってもこの世に生を受けたことは受け入れるべき運命。その大きな流れは変えられないけれどこれから生きていく時間の中で変えることの出来る運命は色々とあるはず。」
「何時そんなことを考えたんだ。」
「今。」
その場当り的な秋絵らしくない答え方に呆れると同時に僕達はお互いに吹き出してまたしばらく笑い合った。
「ここ何日かの間に随分考え方が変わったわ。よく言う『肩の力が抜けた。』って言うのかな、あまりものごとをことさら難しく考えなくなった。自分が出来ることを力一杯やってみよう。そして結果が出た時にそれを受け入れるのか別の道を考えるのか決めればいいとそんなふうに思うようになった。
それが正しいのかどうか分からないけれど。とにかくやろうと思ったことはやって見ようって。ねえ、私も早くそのテリー、何て言った。会いたくなった。本当にどんな人なのかな。」
「テリー・ヒルフォート。会ってみれば分かるよ。案外ただの無知な売春婦だったのかも知れない。でも何かしら人の心を穏やかにさせるものを持った女だと思う。もっともそれは男から見ての話だけれど。女から見たらどうなのかな。さあて明日は早いし、それに少し疲れた。そろそろ休もうかな。」
秋絵は黙って明りを消して僕の隣に横になった。そして手を延ばすと僕の手を握った。僕はその秋絵の手を軽く握り返すと「おやすみ。」と秋絵に声をかけてから目を閉じた。
「明日もまた会えるわね、あなた。」
「多分。」
「必ずよ。おやすみなさい。」