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「秋絵、何か飲みたい。ルームサービスを頼んでくれないか。」

 僕は突然何かを食べたくなった。驚くかと思った秋絵は何も言わずに電話を取り上げると「何がいいの。」と僕に向かって聞いた。

「ビールと言いたいところだけれどアップルジュースあたりが妥当なところかな。それにアイスクリームも。」

 秋絵がルームサービスに電話をすると間もなく注文したものが運ばれて来た。ジュースを一口口に含むと、その甘さが喉の奥まで広がった。

「アイスクリームは」

秋絵がグラスを持ち上げた。

「まだいい。もう少しジュースを。こんなに旨いジュースは初めてだ。」

 グラスを持ち上げて口にしようとした時にノックの音がして秋本が顔を出した。秋本は部屋に入って来るとジュースを飲んでいる僕を見て一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔に戻って「俺がいない方が回復が早いのかな。」と軽く冗談を飛ばした。

「点滴はとかくに鬱陶しいかも知れないが、でもそれだけじゃ足りないだろう。」

秋本は輸液パックを取り出すと秋絵を呼んだ。

「秋絵さん、何度も説明しているから分かるだろう。やってみてくれ。」

 秋絵は黙って頷くと点滴スタンドを立ててそれに輸液パックをかけてチューブを延ばした。僕の胸から出ているチューブに繋ぐ前に秋本が一通り説明したことを秋絵は苦もなく簡単にやって除けた。秋本は滴下速度とか、二、三の注意を与えてから「何かあったら呼んでくれ。」と言い残して部屋を出て行こうとした。

「秋本、ちょっと待ってくれ。」

 僕は秋本を呼び止めた。今度こそ秋本に面と向かって話をするのは最後だろうと思うと秋絵のことをもう一度確かめずにはいられなかった。

「迷惑のかけついでに最後にもう一度嫌な話を聞いてくれ。」

「秋絵さんのことだろう。」

秋本は振り向きながら答えた。僕は秋本に向かって黙って頷いた。

「もう結論は出ているだろう。俺は別に逃げる訳でも責任がどうのとそんなことを言いたいわけでもないけれど、今は彼女から少し離れようと思っている。ただ彼女を愛していることに変わりはない。それだけははっきり言っておきたい。」

秋本は続けようとした言葉を一度呑み込んでから二、三回深く呼吸した。

「だからこの間君達が病室で、あの時は本当に辛かった。文句を言えるような立場じゃないし、それが逆恨みみたいな感情だということはよく分かっていた。それでも腹の中におてんとう様でも飛び込んで来たようにぐらぐら煮え立って、その腹立たしさが何だか我ながら情けないくらい惨めだった。

 そんな泥棒の横恋慕みたいな俺の感情なんかよりもあんな時に自分の奥さんを寝取られたことを知ったお前の方が俺なんかとは比較にならないほど苦しかっただろうに。もう一度、本当に謝っておく。でも俺はやっぱり秋絵さんを愛している。

 あの時はっきり分かったんだ。自分はあの女が好きだってことを。今他の男に抱かれているあの女を心の底から愛しているんだってことを。もういいだろう。この位で許してくれ。」

秋本は椅子に体を投げ出すように座った。

「許すなんてとんでもない。俺は感謝してるんだ。一端の芸術家気取りで自分が守るべきものも守らずに文学だ、芸術だ、女だ、酒だとうつつを抜かしていた俺の代わりに秋絵を守っていてくれたことを。今更嘘やお世辞は言わない。本当にそう思っているんだ。

 秋絵にしても辛かったと思う。家庭らしいものなんか影も形もないし、自分の健康は損なうし、誰にも寄り添うことも出来ない。さっきも秋絵に話したんだけれどそれはそれで自分のしたことだから仕方のないこともあると思う。ただ自分の強さだけを頼りに生きてきた者にとっては健康という自分を守るべき盾の一つが破れたことは大きな打撃だったと思う。

 そんな時に夫の俺は秋絵を振り向きもしなかった。お前がいなければ秋絵はあの時崩れていたかも知れない。それを支えて救ってやったのは、秋本、お前だと思う。今、秋絵は感情が交錯しているけれど落ち着けばきっとお前のことを理解すると思う。」

僕はもっと言いたいことがあったのだが、そこに秋絵が割り込んだ。

「私も言わせてもらっていいかしら。二人とも私を庇ってくれているけどそのことでは私の責任が一番重いような気がするから。私は今も秋本さんを愛しています。こんなことがなかったら私は何のためらいもなくあなたとの生活を投げ出して秋本さんのところに行っていたと思います。

 さっきあなたが言ったとおり秋本さんはあの頃の私にとっては本当に救いの神でした。秋本さんがいなかったら私は自分を支え切れなかったかも知れない。秋本さんに抱かれていると本当に安心していられた。あなたのことなんか欠片も考えなかった。

 でもあなたが私に何も言わないでイギリスに行ってしまった後で秋本さんからあなたの病気のことを聞いた時、その方が簡単に事が済んで好都合だなんて今考えれば背筋が凍りつくようなことを考えながら、それでも心のどこかにわだかまっているものがあることに気がついた。最初は自分にもそれが一体なんなのかよく分からなかった。

 でも何も考えないでそのまま忘れてしまうにはそのわだかまりは心に重すぎた。だから自分の記憶の糸を手繰りながらそのわだかまりを少しづつ表に引き出してみた。そして最初に会った頃、あなたに対して持っていた自分の感情を呼び覚ました。私はあなたに敵愾心と言ってもいいくらいのライバル意識を感じてはいたけれど、同時にあなたに認められたい、そして愛されたいという裏返しの強い気持ちを何時も抱えていたことに気がついた。

 気がついたというよりも最初にあなたに会った時からずっとそんな気持ちを持ち続けていた。ただそれを心の奥に無理やり押し込んで触れないようにしていただけかも知れない。

 時々あなたが他の女の人を抱いて帰って来た時、あなたに纏わりつく私のとは違う匂いを感じた時なんか身震いがするほどくやしかった。普通の嫉妬とは違う。あなたに抱かれた女の人達はいくら私がそうしようとしても出来ないことを、そう、あなたの前で女の自分をむき出しにして『私を抱いて。愛して』ってあなたの前に体を投げ出すことをどうして簡単にやってのけてしまうんだろうって。

 それが許せないくらいくやしかった。だから私はそんなことはしない。でも私なりの方法で力づくでもあなたを自分の方を向かせようと思った。あなたを自分の前に跪かせてみせるって。でもあなたはそんな私からどんどん遠ざかっていってしまった。本当は簡単なことだったのに。ただ素直になればよかったのに。自分の思っていることに素直になるだけでよかったのに。

 あの時、あなたに抱かれた後で私は自分の体を開いたまま投げ出して心地好さに浸っていた。体の心地好さだけではなくて何だかそれまでわだかまっていたものから解放されて宙に舞い上がって行きそうな気持ちだった。『私にも出来た。』ってそう叫びたいような気持ちだった。

 でもそんな快感から覚めた時、もっと考え込んでしまった。だってそうでしょう。本当なら私が手を差し延べてあげなければいけない命の終わりが近づいているあなたに手を引いて導いてもらわなければ自分を解放することも出来なかった私って一体なんて人間なんだろうと思うと情けなくて恥ずかしくて。

 人を愛したい、人に愛されたいなんてそんなことを口にする資格もないように思えて。だからせめて自分が最初に愛されたいと思った人の側で一体どのくらい自分に正直にそして素直になれるか精一杯あなたと一緒に生きて見ようってそう思った。

 でもやっぱりあなたに慰められたり勇気づけられてばかり。結局、あなたの負担になるばかり。でもね、今私は自分の身体を切られるよりも辛いし悲しいけれどこんなに伸び伸びと素直に生きたことはこれまで一度もなかった。

 もしも今、何の条件もつけないでこれから一緒に生活していくためのパートナーを選ぶとしたら私は迷わずに秋本さんを選ぶと思います。でも、もしも一人だけ、本当に心から愛することの出来る人を選べと言われたら私は迷わずにあなたを選びます。」

 言い終わってから秋絵はしばらく下を向いたまま唇を噛むようにして口を結んで何ごとか考えている様子だったが、突然顔を上げると「あはは。」と大きな声で笑った。

「私、これで、一番出来た生活のパートナーをなくしたわ。そしてもうすぐに最愛の人をなくしてしまう。でも私は本当に幸せだった。秋本さんと、そしてあなたに会うことが出来て。秋本さん、ありがとう。

 そしてあなた、迷惑かも知れないけどもう少し側に置いてね。もうあまりあなたの邪魔をしないようにするから。お願いね。」

 秋絵は大きく息をついた。本当に自分の言いたかったことを秋絵は全部言い尽くしたようだった。ただ最後の部分だけは本心なのか僕と秋本の両方に花を持たせようと気を使ったのかそのことは僕にも分からなかった。